そもそも税とは何なのか?

──伊藤恭彦著『タックス・ジャスティス──税の政治哲学』に寄せて
佐野 亘
(さの わたる・京都大学教授

『本書は、これまで一貫してリベラルな正義の観点から政治と政策について考察してきた著者が、政府と税のあるべき姿について正面からていねいに論じたものである。政治哲学に関する専門知識がなくても、税や政策に関心があるひとであれば最後まで興味をもって読めるように、わかりやすく書かれている。

本書のテーマはタイトルの通り、税について正義の観点から考察することである。ただし、重要な点は、議論の対象を課税に関わる話に限定していないことにある。タイトルをみて、本書は累進課税や直間比率について議論していると思われるかもしれないが、本書の最大のポイントは、税に関する議論はその使われ方を含めてなされるべきであり、課税方法の公平性にばかり目を向けるのはミスリーディングであると主張している点にある。実際、税に関する専門的な書物を開くと、公平性などのことばは出てくるものの、そこで論じられているのは、ある金額を国民から税として徴収する場合、その「割り振り」をどうするかという点にもっぱら関わっている。だが著者も指摘するとおり、たとえば消費税のような逆進的な税であっても、その使い方によっては必ずしも不公平とは言えない。課税の場面における公平性だけが税に関わる正義の問題ではないのである。

そして本書の第二のポイントは、こうした支出の場面も含めて総合的に税のあり方を考えようとすれば、そもそも政府はなぜ存在するのか、理想の社会はどのようなものか、また、政府はそこでどのような役割を果たすべきか、という根本的な問題に立ち返る必要があることを正しく指摘している点である。税はお金にまつわることであり、それゆえどうしても「経済の話」として捉えられがちである。けれども、税はそもそも市場によって実現できない「大事な価値」を実現するためにこそ存在するのであり、もっとも重要なことはその「大事な価値」とは何かを考えることにほかならない。もちろん、ひとによって何を「大事な価値」とするかは異なるが、それでもなお多くのひとが共有できる「大事な価値」があるはずであり、そうでなければそもそも政府など必要ないのである。

では、その「大事な価値」とは何だろうか。著者はそれを個人の尊厳であるという。もちろん何をもって尊厳とするのか、また、なぜヒトに尊厳があると言えるのか(動物にはないのか)という問題は残されているが、正義を支える根本的な価値はつまるところ個人の尊厳以外にないと著者はいう。そして、税のあり方を構想するうえでは、ひとの尊厳が傷つけられるような事態を極力減らすことを第一の目標にすべきであるとする。実際、いまなお市場経済のもとで多くの人々が人間としての尊厳を奪われた生活を強いられている。むろん市場には大きなメリットがあり、わたしたちはそれを前提とせざるをえないが、その一方で市場は大きな暴力性をともなううえ、市場では供給されない財やサービスも存在する。政府はまさにそうした市場のデメリットを補うために存在するのであり、税もそのためのものとしてあらためて理解しなおす必要がある、というのである。

筆者によれば、税はそもそも「市場で正当に手に入れた所得からやむを得ず払うもの」ではない。市場を通じて手に入れた所得のうちどこまでが正当に自分に帰属する分であり、どこからが政府に税として納めるべき分であるのかは、本来みなで決めるべきことである。市場は、ひとつの分業システムとして共同的に富を生み出すメカニズムであり、そのシステムの構成員はだれもがその恩恵に与ることができるはずである。たまたまあるひとが市場で大金を手にすることができたとしても、それはそうしたシステムが存在するからこそであり、しかも市場で成功するか否かはじつは相当程度運次第である。であるとすれば「市場で手に入れた所得は当然にすべて自分のものである」と主張することはできないはずだろう。くわえて、そもそも市場は政府の活動抜きには成立しがたい。したがって、わたしたちは、市場と政府の両方をにらみつつ、うみだされた富(全所得)のうち、どれだけを税として政府が使い、どれだけを各人に残すかをあらためて決める必要があるのである。

以上の基本的アイデアにもとづいて、著者は「タックス・ジャスティス」の具体的な中身として、?尊厳の保護、?エンパワーメント、?社会的に好ましくない財やサービス、活動への課税(好ましいものに対する減税)、?社会の絆の維持・補強、という四つの原則を提示する。そして、この原則のもとに、租税回避やふるさと納税、グローバル・タックスといった、より具体的なテーマについて論じている。その詳細な内容にここで立ち入ることはできないが、わたしには、全体として説得力のある魅力的な構想となっているように思われた。特に、個別の論点については批判や疑問がありうるとしても、尊厳の尊重という基本的な理念から出発して、具体的な税制のあり方をも射程に入れて議論を展開している点は特筆に値する。くわえて、かつてであれば政治哲学者がこのように税のあり方について本格的に論じることなどおよそ想像できなかったことを考えると、感慨深いものがある。公共政策をめぐる議論はテクニカルな実践論として受け取られがちだが、決してそうではないことを本書は見事に示している。

ただし最後にひとつだけ気になる点を挙げるとすれば、それは実現可能性に関してである。本書は、「市場において人々の尊厳は奪われやすく、民主主義にもとづく政府はそれを補完できる」という前提にたって議論を展開しているが、本当にそのように言えるだろうか。たとえば、市場においても人々が利他的に振る舞うようになり、市場経済のもとでも人々の尊厳が傷つけられることはなくなる、という可能性はないのだろうか。あるいは逆に、民主主義のもとでも人々は利己的に振る舞い、その結果、政府は人々の尊厳を守る政策を採用しない、という可能性はないのだろうか。あるいは、市場に負けないほどの富をうみだしながら、ひとの尊厳を傷つけないような市場以外の経済システムが可能である、と考えるひともいるかもしれない。つまり、何が実現可能であると考えるかによって、結論はずいぶん違ってくる可能性があるのである。

とはいえ、著者はこうした指摘がありうることをよくわかったうえで、議論を展開しているようにも思われる。理想の社会を実現するにあたって何がどこまでが可能であるかは、さまざまな実証データや歴史的経験を踏まえて判断されるべきだが、同時に、それは一種の「賭け」のようなものでもある。本書はじつは根底のところで「民主主義への賭け」によって成立しており、読者にもその「賭け」に参加するよう誘っている。そしてその「賭け」は「あえて安易な楽観」によって支えられているとともに、「壮絶な覚悟」をともなっている。わたしには、その姿はとても清々しいものに見える 。


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