逆ドメスティック・アナロジーの衝撃
──リチャード・タック『戦争と平和の権利――政治思想と国際秩序:グロティウスからカントまで』の国際法学における意義
西 平等
(にし たいら・関西大学教授

リチャード・タックのテーゼを一言でまとめれば、こうだ。〈近代政治思想の前提となる、自己利益を追求する自律的な個人という観念は、国際関係における主権者の観念に由来する〉。すなわち、国内の政治秩序思想の基盤となる観念が、国際秩序思想からのアナロジー(類推)として形成されたということである。

これは、国際法学にとって、衝撃的な思想史解釈といえる。なぜなら、国際法学においては、国内秩序から国際秩序への類推(ドメスティック・アナロジー)こそが、問題とされてきたからである。法律学の通念によれば、「遅れた」法は、「進んだ」法を受容する。そうだとすれば、未発達の「原始的法」である国際法秩序の構想は、より発達した国内法秩序の構想を類推することによって、その「進歩」に追いつこうとすると考えるのが自然であろう。

「国内秩序からの類推」が国際法の特質であるという考え方は、学界において広く流布している。現行実定法規則に精通する浅田正彦も、国際法思想史に造詣の深い大沼保昭も、国際法分野において国内私法からの類推が行われているという認識において一致する。おそらく今日の世界でもっとも有名な国際法思想史家であるコスケニエミもまた、国際法思想史におけるドメスティック・アナロジーの意義を強調する。自己利益を追求する自由・独立・平等の個人を出発点として秩序を構想する自由主義政治思想が、国際関係に類推されて、国益を追求する自由・独立・平等の国家からなる国際法秩序が構想されるようになった、というのである(Martti Koskenniemi, From Apology to Utopia, 1989)。

ところが、タックは、全く逆のことを主張している。近代自由主義の政治思想の形成において、国際法(戦争法)からの類推が、決定的な意義を有したというのである。しかも、そのような国際秩序から国内秩序への類推(逆ドメスティック・アナロジー)を行うことによって、自律的個人からなる近代的秩序構想の基盤を作る役割を果たしたのは、グロティウスだという。そうだとすれば、グロティウスは、「国際法の父」ではなく、むしろ「近代国内法の父」と呼ばれるべきこととなろう。

タックが注目するところの、グロティウスにおける逆ドメスティック・アナロジーの論理は、極めて単純である。主権者の権限は、社会契約によって個人から主権者に移譲されたものである。したがって、主権者の権限は、刑罰権や戦争権も含め、すべて、本来的には個人に由来する。それゆえ、自然状態における個人は、あたかも国際社会における主権者のように、自己の利益を追求する自律的存在であり、必要に応じて、刑罰権や戦争権を行使しうる。

このような論理は、ホッブズを読み慣れた私たちの目には、さして新鮮に映らないかもしれない。しかし、グロティウス以前の秩序思想において、刑罰権や戦争権は、統治者に固有の権限であると考えられていたことを想起するなら、この単純なアナロジーの持つすさまじい破壊力に思い至るだろう。もし戦争権が、統治者に固有の権限であって、私的個人には無縁なものであるとすれば、定義により統治の存在しない自然状態には、戦争権は存しえない。そうであるなら、ホッブズのいう戦争状態としての自然状態は想定不可能であろう。統治者固有の権限という限定が打ち破られてはじめて、自然状態における個人が戦争権を持つと考えることができる。つまり、グロティウスこそが、ホッブズ的秩序観を切り拓いたのだ。

正直なところ、評者は、国際法研究者として、このようなタックの解釈には半信半疑である。私たちは、ずっと、グロティウスを、むしろスコラ的自然法論の伝統をひく者として理解しようと努めてきた。それを突然に改めるのは難しい。しかし、評者などには及びもつかぬ博識のタックが、スコラ的自然法の伝統と人文主義の伝統を鮮やかに切り分け、グロティウスを後者の系譜に位置づけるのを目にして、根本的に考え直す必要を感じずにはいられない。

そして、じっくりと思い返すなら、タックはそれほど突飛な主張をしているわけではないという気もする。

第一に、すでに伊藤不二男が強調しているように、グロティウスに先行して戦争法を論じたローマ法学者ゲンティリス(ジェンティーリ)は、統治者(公的権威)のみが戦争権を持つと考えている。もし、タックのいうように、グロティウスをスコラ的伝統から切り離し、ゲンティリスの系譜に位置づけることができるとすれば、グロティウスこそが、「人文主義的」戦争概念を個人に拡張したといえるだろう。

第二に、グロティウスにおける逆ドメスティック・アナロジーの可能性は、法思想史において、従来から暗示されてきた。グロティウスの『戦争と平和の法』における所論が、理性法論をはじめとする国内法理論に大きな影響を与えてきたことは周知である。そして、大沼保昭がすでに指摘しているように、グロティウスは、法規が意思に拘束力を付与する、という学説に反駁し、意思そのものが拘束力の根拠となりうることを論証するための根拠として、国家間の条約が拘束力を有することを挙げている。これは、逆ドメスティック・アナロジーによる意思理論の擁護という側面を持つ。

第三に、マルクス『資本論』以来、共同体間の関係(市場)が、共同体内に移入されることによって近代社会が形成されるという歴史解釈が、歴史学や社会学において、広く唱えられた。例えば、見田宗介は、ゲゼルシャフト的関係が、前近代的な社会において、ゲマインシャフト相互の関係として存在していたと述べている(「共同態・の・集合態」)。実は私たちは、逆ドメスティック・アナロジーについて、学生時代から繰り返し聞かされていたのである。

にもかかわらず、タックの理論に衝撃を受けざるをえないのは、やはり、私たちが、通念の枠にとらわれてきたからだろう。既存の視角を越え出ることの大切さを改めて感じさせられる 。


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