政治における「知」の無力さに抗して
──ベルトラン・ド・ジュヴネル『純粋政治理論』によせて
川上洋平
(かわかみ ようへい・慶應義塾大学非常勤講師

政治に対して、「知」は何をなしうるのか。哲学者は、古来、政治家に対してあるべき統治のあり方を説いてきた。しかし政治家がそれに真剣に耳を傾けた例は多くはない。むしろ哲学者の無力を証す政治的悲劇の連続が人類の歴史であったといってもよい。そして戦争や革命といった「大変動」において、現実の出来事が政治家たち自身の意図をも超えてあたかも自律的に運動していくかにみえるとき、ひとは政治における学問のみならず人間そのものの無力さに打ちひしがれることになろう。

二〇世紀前半の政治的激動を間近に経験したフランスの政治学者ベルトラン・ド・ジュヴネル(一九〇三─一九八七)が一九六三年に公刊した『純粋政治理論』は、この政治権力の破壊力に対峙して、政治についての「知」はどのような「知」たるべきなのかを、まさに政治における「知」の役割に対する徹底した懐疑と危惧を経由したうえでなおも問おうとするものである。権力に対する強い「不信」に発しつつも、にもかかわらず規範的にではなく記述的に、つまり「事実的アプローチ」によって政治を語る必要性を訴える本書は、政治という剥き出しの事実を前にした「知」の力と無力さについて読者にさまざまな考えを抱かせる。

本書の著者ジュヴネルは、知名度は必ずしも高くなく、日本はおろか本国フランスにおいてさえ「忘れられた思想家」である。本書に付された訳者による充実した解説によるならば、戦間期にヒトラーに対する単独インタヴューを敢行したことなどの事実から、「対独協力者」の疑いがつきまとい続けたことがその一因である。だが、いわゆる政治学三部作と称される『権力論』(一九四五年)、『主権論』(一九五五年)、そして本書『純粋政治理論』が、それぞれ歴史的叙述、規範的分析、事実的記述といった各々異なる方法を採用しており、ジュヴネルの思想家としてのスタンスを不明瞭にしていることもそれに与っていよう。そのような変遷のなかにある「思想家」としてのジュヴネルの全体像とその意義を解明するジュヴネル研究──訳者のひとり中金聡氏がその筆頭を担っている──の進展を期待しつつ、ここではこのたび邦訳が刊行された『純粋政治理論』における「ミクロ分析」によって浮かび上がる「知」の政治的力に注目してみたい。

本論六部と補論からなる本書は、全体として比較的明快な構成をとっている。アプローチの説明(第?部)と社会における人間の基本状況の設定(第?部)がまずあり、第?部で「ひとがひとを動かす」という政治の純粋原理が提示される。このような原理論を踏まえて第?部以降は、その純粋原理が事実としてどのように方向付けられるかが、「権威」、「決定」、「態度」の三つの主題へと区分されつつ考察されていくのである。

前半(I〜III)の原理論において、著者はまず政治理論においてこれまで「理論」という言葉が事実的にではなく規範的に理解されてきたことの理由を述べる。すなわち、政治理論の役割とはもっぱら権力を馴致することであるから、事実として権力が何を為しうるかを示すことはきわめて危険であり、為しうることをあたかも為し得ないかのように語らなければならないのである。しかしながら、著者によれば現代においては政治権力はすでに法や規範を散々に侵害したのであり、事実的アプローチはいまやその危険性よりも「有益な警告」としての役割のほうが上回る。つまり政治権力が「実際に何をしているか」を明らかにすることでそれを制御していくことが現代における政治理論の務めなのである。

政治的現象においてひとは、それではいったい何をしているのか。いうまでもなく政治的現象の実際の動態は、さまざまな要因が複雑に連鎖し合いきわめて捉えがたい。そこで著者が提示するのが、政治とは突き詰めれば「ひとがひとを動かすこと」であるという純粋原理である。すなわち、いかに奇怪かつ制御不可能に映る政治的事件も、もとを辿ればあるAのBに対するHを為せという「煽動」に発したのであり、その後の経過もそのすべてが「煽動─応答」の連鎖でしかないのである。この連鎖は後からみれば抗いがたい自然法則のようにみえてしまう。だが、著者が強調するのは、一つひとつの「煽動」に対する「応答」はミクロに捉えれば実のところ常に、承諾と非承諾のいずれの選択肢にも開かれているという事実である(「応答、そこにこそ陰の実力者(キング・メーカー)がいる」)。著者の卓抜な比喩にしたがえば、あらゆる樫の樹がドングリから成長したのは確実であるが、すべてのドングリが樫の樹へと成長するわけではない。かくのごとく、政治の知についての著者の視点は、「後知恵(ポストディクション)」に支配されがちな政治の知を「予言(プレディクション)」として、その時々の不確実性の場へと送り返していくのである。

原理の提示は、むろん、著者の議論の出発点にすぎない。本書の後半(?〜?)では、人間がその「根元」において自由であるという原理を踏まえ、それにもかかわらず秩序の形成を可能にする、人間の「応答」の傾向性について議論される。この傾向性を形成するのが「権威」の役割である。権威は、後知恵によって捉えるならその実効性は自明なものにみえる(法的な「〈権威〉」)。しかしそもそも「ひとがひとを動かすこと」自体がつねに不確実な予言としてしか存在しないという視座に立つならば、その「動かすこと」を一定の方向へと実効的に秩序づける「権威」もまた、危うさを抱えた動態的な現象として浮かび上がる(自然的な「権威」)。それによって、後知恵としては不可避にみえる種々の政治的悲劇が、ミクロな「煽動─応答」の集積として、その意味で一つひとつの応答次第によっては回避可能であったものとして理解され、人間の「意図」の下にいわば取り戻されることになる。著者はこのように、徹底してミクロの視点からひととひととの原理的な関係の「知」を得ることで、よりマクロな政治に対する人間の無力を克服すべく試みているのである。

その試みの具体的なあり方やその正否について詳しくみる紙幅は、もはや残されていない。しかし最後にぜひとも触れておきたいのが、本書における叙述のスタイルについてである。本書は「科学として政治学」を目指すものでありながら、同時代の現実の政治現象を直接分析するのではなく、むしろトゥキディデスの歴史書およびシェイクスピアの戯曲から引かれた政治的悲劇、ひいては著者みずからが創作したプラトンの対話篇『アルキビアデス』の続編など、さまざまな文学作品が随所で用いられる。これは人間を、「他者の国のなかのエゴ」、つまり所与のものとして既に存在する社会関係のなかに生まれ、「孤独や不安」を感じつつ、他者に対して働きかけ、成功しときに破滅する──ドストエフスキーやバルザックの主人公のような──個人として捉える著者の前提に由来するものであろう。自己の行動は、つねに他者の予測しがたい「応答」に曝される。このミクロな機微を理解することが、ひいてはマクロな政治についての「知」を可能にする。こうした視点に貫かれつつさまざまな歴史的実例や挿話を通して展開される本書は、優れた文学書が与えるそれに似た読後感をもたらす。本書の種々の分析によってどこまで現実の政治を見る科学的視点が鍛えられるかには、さまざまな議論がありえよう。だが、本書を読み通したとき、複雑怪奇で制御しがたく感じられる政治のダイナミズムが、それ以前よりももう少し人間的に見えてくることは間違いないように思われるのである 。


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