オークショットの作法──「主義」を絶ちつつ「主義」に進む

マイケル・オークショット『歴史について、およびその他のエッセイ』(添谷育志・中金聡訳)に寄せて
野田 裕久
(のだ やすひさ・愛媛大学教授

マイケル・オークショット(一九〇一〜一九九〇年)の『歴史について、およびその他のエッセイ』が邦訳された。オークショット著作の邦訳書として『保守的であること──政治的合理主義批判』(昭和堂、一九八八年)、『政治における合理主義』(勁草書房、一九八八年)、『市民状態とは何か』(木鐸社、一九九三年)、『リヴァイアサン序説』(法政大学出版局、二〇〇七年)に続く刊行である。オークショットの知の営為を初期・中期・後期に分けるなら──それぞれの代表作は『経験とその諸相』Experience and Its Modes(1933)、『政治における合理主義、およびその他のエッセイ』Rationalism in Politics and Other Essays(1962)、『人間行為論』On Human Conduct(1975)──本書は概ね後期に属する一作品である。

本書のジャンルは歴史系と政治系に大別される。六篇の論攷からなる。前者は「歴史についての三篇のエッセイ」として「現在、未来、および過去」、「歴史的出来事──偶発的なもの、因果的なもの、相似的なもの、相関的なもの、類比的なもの、および偶然的なもの」、「歴史的変化──同一性と継続性」、後者は「法の支配」、「バベルの塔」、「代議制デモクラシーにおける大衆」。ティモシー・フラー氏の「まえがき」、中金聡氏と添谷育志氏の「訳者解説」が付されており、オークショットの著作活動における本書の意義や、同時期の歴史理論や政治哲学との異同が詳細かつ周到に論じられている。

オークショットの主張やいかに。それらはどう名づけられるべきなのか。論述のスタイルに着眼すると、オークショット所説の特色は、「主義」との不即不離の距離感にあるといってよい。「主義」(イズム)とは信念の体系。意欲、価値づけ、当為、説得と実践、道徳化、「実用」志向を旨とする。イデオロギーとも。

まずは「主義」との「不即」性について。歴史にせよ政治にせよ、その本来の理解とはいかに。そのものをそのものならしめている当の事柄は何か。あたかも「主義」という不純物を除去する作業のように、それは何でないかの不断の自問自答が連鎖する。歴史の事象は現代への教訓ではない。法則の例証でもない。目的論の顕現でもない。歴史の学びとは、現在に残された事物から推察して過去の諸々の出来事を当の過去の脈絡で関連づけること、もっぱらそれに留まる。さしずめ「歴史問題」や「歴史を鑑となす」戒めや「未来志向」等々は固有の歴史理解と無縁の事柄であろう。歴史そのものには固より「主義」──「実用」への訴求力はない。また、政治は共通目的の達成を目指す指導者と大衆との共同事業ではない。「法の支配」の観念に示唆されているようにルールの権威を相互に承認した上での各自なりの目的追求の場にすぎない。「主義」の訴えになじまない。テリー・ナーディンTerry Nardin氏が、二〇一二年一一月九日の「アサン政策研究所」(ソウル)にての学会で、オークショットは自由主義者でも保守主義者でもないと述べた所以である。オークショットは「真正の哲学者」であってイデオローグではないとするのである。

さて、それにしても「主義」との「不離」性もあろう。「主義」からの距離は「主義」との断絶を意味しない。イデオロギー批判の純化過程のうちに反射的効果さながらに透視されるオークショットの「主義」──実践への含意があるに違いない。歴史や政治に関してオークショットの立場の積極面があるはず。ノージック『アナーキー、国家、ユートピア』Anarchy, State, and Utopia(1974) のように「諸個人は権利を持つ」との宣言一つを以て、自身の政治哲学の口火を切る流儀では確かにないとしてもである。なお、あたかも著者の本意が読者の心に念写されるという構図ではない。読み手(一般読書人や研究者や教育者)の関心の所在という契機もある。受け取り手がテキストにおいて知った思想を、要約して言い換えたり伝達したり他の思想との関わりで分類し整理したりする必要や都合も生じよう。それを何々主義と命名することは思考の経済というものである。たとえば、オークショットは「保守的であること」の論者であって保守主義者ではないと説くのは徒に迂遠な言い回しである。その論旨に保守主義の要素とされる社会有機体説が見られないとしても、やはりそれは「保守主義」の一類型と呼ばれて然るべきなのである。また、文脈に即すれば、潔癖な無記の立論それ自体にもメッセージ性が読み取れよう。全体主義的社会主義への幻想はともかく、社会民主主義的な改革──「バベルの塔」構築の情熱がなお冷めやらぬ時代背景にあっては、企業的結合体の類比を排する政治認識を語ること自体、すでに保守と自由の「主義」の表明でなければならない。価値中立的な叙述のうちに実践への含蓄がある。これは間違えようがない。(ナーディン氏の言辞を捩れば)オークショットは自由主義者でもあり保守主義者でもある。オークショットの「市民的結合体」への選好は当人が「理論家」から「道徳家」へと逸脱した証(ナーディン)なのではない。「理論家」たることにおいて「道徳家」の含意がある、市民的結合体としての国家の特質を記述することがすなわち自由主義と保守主義の宣明たりうるのである。自由や伝統の実体への直截な?信仰告白?はオークショットの真骨頂ではない。オークショットは、合理主義に魅入られた「主義」貫徹という前提を批判し、何よりもその「主義」批判に基礎を置きつつ、いわば裏から「自由な秩序」の保障を試みる。そうした自由と伝統の擁護論なのである。

「主義」を絶ちつつ「主義」に進む。オークショットの作法はそこにある。本書は他のオークショットの著作と同様に、その個性と持ち味がよく凝縮された逸品である。


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