近世ロシア史に新しい風
宮野裕著『「ノヴゴロドの異端者」事件の研究:ロシア統一国家の形成と「正統と異端」の相克』を読んで
松木 栄三 
(まつき えいぞう・静岡大学名誉教授)

 
 本書は近世ロシア国家成立史の重要なテーマの一つ、一五世紀と一六世のはざまにノヴゴロドとモスクワに出現したとされている「異端」に関する質量感のある政治・思想史的研究である。一九九〇年代の後半に一四世紀のノヴゴロド異端(ストリゴーリニキ)を対象に研究活動を開始した若い宮野裕氏が、その後二〇〇〇年代に入ってから集中的に取り組んできたのが一五世紀末から一六世紀初めの数十年にわたり、最初はノヴゴロド、次いでモスクワで猖獗したとされ、かつては一般に「ユダヤ派異端」、ソヴェト時代には「ノヴゴロド・モスクワ異端」の名で呼ばれてきた異端者にかかわる政治的・宗教的事件の研究である。著者はすでに二〇〇三│二〇〇六年にかけて発表してきた一連の論文に手直しを加えて整序し、本書では一貫した視点からこの事件の全プロセスを解明してその全体像を提示しようと試みており、それに成功していると言えよう。そして本書が最も際立っているのは、一九世紀とソヴェト時代を通じてかなり分厚い研究史をもつこの分野の従来の研究に、共通した不動の前提となっていたあるひとつの論点に思い切った「見直し」を迫る、きわめて定説批判的な、その意味で意欲的な問題提起の書であるという点であろう。では著者が本書で提示している定説批判的な問題提起とは何だろうか。

一言で云うのは難しいが敢えて単純化すれば、それは一九世紀以来これまでの従来の研究が依拠してきたこのテーマに関する基本史料、ヨシフ・ヴォロツキーの著作『啓蒙者』の解釈や読み方の根本的な「見直し」の提案ということになろう。ヴォロコラムスク修道院長ヨシフは当該異端の同時代人であり、当時の正教キリスト教会の立場を代表する教会活動家・著述家として、つまりこの異端を正教の敵として撲滅すべき対象とみなし、それを正当化する見地から著したのが『啓蒙者』だった。しかしこの著作は異端の発生から消滅にいたる全プロセスを記す唯一の記録として、当該異端を対象とするあらゆる研究が何らかの意味で取り上げ、また依拠せざるを得ない重要史料でもあった。一九世紀以来これまでの諸研究はこの著作のもつ史料的な制約や内容上の虚構などさまざまな問題点を明らかにし、これ以外の諸文献への史料的拡大、それらとの比較や異同の確定、異端事件の政治的背景の解明など研究の広がりと深化により『啓蒙者』の利用や読み方にも確実な進展がみられた。しかし著者によれば、クリバーノフ、ジミーン、とりわけルリエーによるソヴェト時代の最良の諸研究を含め、ほとんどの先行研究には共通する一つの重大な欠陥が存在した。それは、『啓蒙者』がノヴゴロドやモスクワに出現した異端者たちを一定の異端的教義や行動によって結ばれる集団・団体・グループを成しているかの如くに描く「虚構」の叙述をそのまま受入れてきた点であり、大多数の研究者はノヴゴロドとモスクワの異端者たちの「異端派集団」としての実像を再現すべく虚しい努力を重ねてきた、と著者は考える。しかしそれはヨシフの詐術に翻弄された結果であって、実際の異端者たちはノヴゴロドでもモスクワでも、一つの共通の思想や行動によって結ばれた集団としての「異端派」などではなかった、というのが著者の問題提起の要点をなしている。

このような視点に到達したのはドイツのヘッシュや、とりわけイギリスのハウレットによるルリエーへの批判的研究に触発された側面が大きかったことを著者は本書の序論で率直に認めている。しかし同時に彼女の研究のなお不十分ないし不徹底な点を充実させ、上記の視点に導かれた研究をより徹底させることで、著者はこの異端事件の全体像を仕上げようと努めていると言えよう。ヨシフが描く発生から消滅までのこの「異端」に集団的な同一性など存在しなかったと考える著者は、「異端」事件の歴史全体を三つの時期にわけ、それぞれの時期につき「異端」とされた人々の実態がどのようなもので、どのような政治的・宗教的的背景と必要性のもとに彼らが「ノヴゴロド異端」として摘発され断罪されていったかを追求している。第一段階(一四九〇年まで)では併合後のノヴゴロドに大主教としてモスクワから派遣されたゲンナージーが、この地に見いだした性格の異なるさまざまな宗教的逸脱行為を「異端」として摘発したにすぎないことを明らかにすると同時に、その背景を共和制時代に蓄積されてきたノヴゴロド教会の伝統や慣習とモスクワ教会との衝突・葛藤にあったと見る著者の指摘には説得力がある。在地貴族など俗人社会上層が物理的に廃絶されつつあった一四八〇年代に、なおノヴゴロドに何らかの社会的異議申し立てを表明する可能性が残されているとすれば、商工庶民層を教区において代表する司祭たちや、政治的アジールでもあった修道院に逃げ込んでいた社会上層出身者からなる修道僧たち以外にはあり得ないように思われるからである。

第二段階(一四九〇年代前半)については、著者は『啓蒙者』の年代に関する論争やその文献学的研究にも果敢に踏み込み、この書の一四九二│九四年成立説を新たな視点から再確認するとともに、この段階ではヨシフ自身が異端とは無関係の七〇〇〇年終末説に関する議論や修道制批判論を敵視して「異端」と結びつけ、さらに政敵の府主教ゾシマをもフレームアップによって「異端」と断罪したとしており、著者はゾシマの追い落としこそが『啓蒙者』(原初版)を著したヨシフの狙いであり、その目的を達成したと主張している。この部分(第二部)は著者が大筋では依拠しているハウレット説をも乗り越え、『啓蒙者』そのものの文献学的検討を含めて最もオリジナリティーを発揮している部分でもあり、読みごたえのある本書の中心をなしている。また第三段階(一五世紀以降)ではイヴァン三世がヨシフの協力のもと、すでに決定済みの後継者を孫ドミトリーから息子ヴァシーリーに転換する政策を正当化する手段として、孫の母エレーナおよび宮廷内におけるその取り巻きを「異端」と断罪して排除する方策をとり、また大公が修道院所領没収政策のためノヴゴロドに送り込んだユーリエフ修道院院長カシアンらを、これに敵対するヨシフが大公への先の協力の見返りとして同じく「異端」の名において断罪し排斥したのが、一五〇四年にモスクワならびにノヴゴロドで実行された一連の「異端者」の火刑事件だったとしている。要するに著者はこの出来事が、実際には宗教的内実をもたない世俗問題を「異端」の名で行った政治的処断事件だったと論じていることになる。そして「異端」への断罪という形をとって行われた大公とヨシフとの間のこの共同は、その後数十年にわたって続く国家と教会との強い協力関係の出発点をつくり、モスクワ国家の集権化そのものにも大きな影響を与えてとして著者は本書の最終章においてこの異端事件の歴史的意味を強調している。
以上のような著者の問題提起は、例えば「清廉派」や「ユダヤ派異端」を利用して修道院所領の世俗化をすすめようとした、などの政策が描かれるイヴァン三世時代の通史に慣れ親しんできた者には驚天動地のことと思えるかも知れない。しかし周到な史学史の整理と可能なあらゆる史料の緻密な分析が積み重ねられるのを読んでいくうちに、そういう読者もこの著者の主張がやはり正しいと思いだすのではなかろうか。評者も読んでいくうちにいつとはなく著者の論理と証明に引き込まれる思いがした。とはいえ三五〇年、独自の発展と固有の文化を蓄積してきたノヴゴロドの教会、とりわけ修道院と教区教会が併合後モスクワの進めた政策に何らかの形で社会的ルサンチマンを示すのは自然だったし、修道院に蓄積されたノヴゴロドの知的伝統は貴族階級が全て追い出されたあとも簡単には消滅しなかったであろうことを想像するとき、「ノヴゴロド異端」としてモスクワに嫌われ、断罪されるような何らかの批判活動がこの時代に存在しても不思議はないという思いも払拭しがたい。ノヴゴロドに独特なそうした伝統が一六世紀を通じて長く存続していたのでなければ、併合から一世紀も経過したあとにイヴァン四世が示したノヴゴロドに対するあの苛立ちの理由は理解できないし、モスクワから派遣された教会人たちがノヴゴロド的「環境」から受ける影響などの事実も納得しにくいように思われるからである。

それにしても、日本では一九七〇年代に栗生沢猛夫氏によって始められたヨシフ・ヴォロツキーの『啓蒙者』に関する研究がほぼ一世代の時間を経て熟し、それも氏の弟子である宮野裕氏の手で一冊の書物となったことは感慨が深い。



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