フーゴ・プロイスの中の希望
D・シェーフォルト著『多層的民主主義の憲法理論:ヨーロッパにおける自治の思想と展望』によせて
白藤 博行 
(しらふじ ひろゆき・専修大学法学部教授)

 
 シェーフォルト教授に初めてお会いしたのは、二〇〇四年一一月にベルリンで開催されたフーゴ・プロイス・シンポジウムであった。当時、在外研究のためドイツのミュンスターに滞在していた私は、偶々フーゴ・プロイス協会(Hugo-Preuァ-Gesellschaft e.V.)のホームページでシンポジウムの開催を知り、日本からも名和田是彦教授が、私もかねてより関心を抱いていた「領域社団(Gebietsk嗷perschaft)」概念にかかる報告をされるというので、参加したいと考えた。さっそく名和田教授にメイルをさしあげたところ、親切にも報告原稿を送信いただき、安心して参加の準備ができた。日本からは、本書の訳者である大野達司教授も参加され、F・リーバーとR・グナイストがわが国の明治期の自治論に与えた影響を中心にして、「ローカルガバメント」について法史学および法哲学の観点から報告されたと記憶する。それまでH・ヘラー研究者として識っていただけであったため、「地方自治」の研究もなさっておられるのかと新鮮な驚きを感じた。シェーフォルト教授は、「領域社団の多様性について(Zur Pluralit閣 der Gebietsk嗷perschaften)」報告された。私の不勉強で教授の業績に触れることのないままの参加であったうえに、私の貧弱なドイツ語力が重なって、しかもほとんどの報告者のレジュメが用意されていなかったことも加わって、シンポジウムの内容をわずかしか理解できなかったことを自白しなければならない。ただ、その夜の懇親会では、シェーフォルト教授とテーブルを同じくし、ビールやワインの助けもあり、私の研究テーマなどに親切に応えていただいたことから、交流を始めさせていただくことができた。その後、わが国の市町村合併問題にかかわって「小さな自治体」の「生き残り」を考えるために、ニーダーザクセン州に残る「連合市町村(Samtgemeinde)」制度についてヒアリングに伺った。「連合市町村」の意義についてていねいに説明していただいたほか、逆に七〇年代大規模な市町村合併を果たしたノルトライン・ヴェストファーレンとの比較制度・実態研究を示唆されたことも思い出す。
このような経緯から、本書の中でも、私の関心は自ずと「第三部 自治行政の諸問題」に向かうことになる。本書の題名『多層的民主主義の憲法理論』がすべてを物語るところであるが、シェーフォルト教授の関心は、グナイストが擁護するような階層的な国家モデルに反対し、公法・私法の区別を超えた「領域社団」の形成の可能性を確信し、市町村、邦国、帝国を等価的な「領域社団」として把握するプロイスの考え方の根底にあったとされる「人間の協力の分析」視点や「個々の政治的統一単位を超えた」「民主的な思想の」「多層への拡張」にあることは明らかである。つまり、プロイスは、ギールケのゲノッセンシャフト理論に立脚し、さまざまな「領域社団」が多様なゲノッセンシャフト構造をもった社会生活を構成し、市町村も、邦国や帝国さえも、「領域社団」という意味で同質のものとして位置づけることで、「国家行政」に対する「地方団体行政」に独立性を要求・保障することが可能になるというのである。教授は、プロイスの中にこのような「多層的民主主義」の思想を見出し、最高権力への集権を回避する「自治」論の核心を見ているのであろう。
そこで教授は、グナイストとプロイスを比較検討して見せるが、前者が「自治行政」、後者が「自己統治」といった単純な対応理論に与することなく、「自治行政」思想は歴史的に正統化されるという確信に基づいて、両者の「法史的方法」の違いに着目するのである。グナイストの国家観が、国家は法人であり、法主体であり、法秩序決定の基本単位であるというように、国家が公法を実現し、「自治行政」はこのような国家への関与でしかないものであるというのに対して、プロイスの国家観(あるいは社会観といった方が正確であろうか)は、団体の人格性に着目し、団体法を社会法と見るところから出発し、人格を持つすべての団体(団体人格)に「自治行政」を承認し、「邦国」・「帝国」を超える存在としてこれを承認し、P・ラーバントによるロマニスト的概念形成の公法への転用に対して批判的なものである。したがってプロイスは、国法学においては常にアウトサイダー的位置にあったというのである。
グナイストとプロイスは、法治国家原理への固執に共通面(=自由主義)が見られるが、ここでも両者の違いは大きい。グナイストは、裁判にとってのセルフガバメントの機能を、なにより治安判事職に見出し、「自治行政」を「行政に対する市民の権利保護」と結合し、市民の権利保護と行政統制を結合することで司法権から分離し、独立の行政裁判権の創設の道へと向かう。その力点は主観法(権利)の保護よりも、「実効的な(行政)統制機能」にある。これに対してプロイスは、グナイストとは異なる法治国家と「自治行政」の結合を試みる。国家規範の「法規形式性」を重視し、規範制定機関としての市町村もこの考察の中に含まれるというのである。したがって、「自治行政」保障の裏がえしとして、市町村への介入は、法的根拠がある場合のみに許される、つまり法監督(Rechtsaufsicht)という方法でもってのみ可能であるというのである。
法形成過程における民主主義原理の徹底に関する両者の違いは、さらに大きい。グナイストはイギリス憲法体制の基礎を議会制度の中で論じているが、セルフガバメントとの関係に限局しての議論にすぎない。民主的参加の主たる領域はセルフガバメントに限られ、それは一八七〇年代プロイセン改革政治で実現された。市民参加は単なるプログラムとなり、名誉職的責任の義務エートスだけが展開された。「自治行政」を民主的に正統化したり、正式の民主的意思決定過程に基づいて根拠づけたりすることには反対だったのである。実際、のちに三級選挙制度を公然と支持することにもなった。
これに対してプロイスは、「団体人格」および「人的共同体」として正統化される社団の観念を重視し、市町村から帝国に至るすべての段階で具体化する意思、つまり法制定および行政に民主的正統性を要請するのである。まさにグナイストが、あくまでもイギリスのセルフガバメントの文脈から「自治行政」を解釈しながら、結局、間接的国家行政としか理解しない保守的なものとなり、プロイスは、この官憲国家的自治行政論の克服者であったといえそうである。ただ、国家のメルクマールとしての統一的な意思決定の確保のため主権の非放棄性のテーゼと対抗し、そのため国家主権の否定者として、ロマン主義とサンディカリズムの中間に位置づけられてしまうことにもなったのである。しかし、ここにはすでに、今日における国家意思の統一性への疑念や「主権概念の変容」にかかる議論の端緒が見られるところである。
この間わが国では、半強制的市町村合併が挙行され、「地方分権改革」がかえって地方自治を破壊するかのごとき現実が見られる。「殺されてゆく」小さな町村の「生きる権利」・「生存権」にこだわったS・ゾムローの議論に思いをいたし、国家と自治体の現代的任務・存在理由を考えてきた私にとって、プロイスの議論は魅力的である。ヴァイマール憲法の起草者であるプロイスがもし現代に生きていたら、C・シュミット以来、制度的保障として議論されてきた自治権保障について、そして市町村の「個的生存」保障について尋ねてみたいものである。プロイスの「多層的民主主義の憲法理論」は、ひとり現代的課題に直面する地方自治の現状に対してだけではなく、「現代化(Modernisierung)」、「立憲化(Konstitutionalisierung)」および「ヨーロッパ化(Europ格sierung)」の課題に直面し変容(Transformation)するドイツ行政法学にもきっと希望を与えてくれるのではないかと考えるからである。



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