思想史研究の現代的意義
川崎修敬著『エドゥアルト・ガンスとドイツ精神史:ヘーゲルとハイネのはざまで
小野 紀明 
(おの のりあき・京都大学大学院法学研究科教授)

 近年、規範的な政治理論を論じる著作は次々と公刊されるのに比して、政治思想史に関する研究書は低迷状態にあるというのが私の印象である。本来、前者もまた政治思想史研究者が対象とすべき領域であることを考えると、現在、特に若手の政治思想史研究者の関心は、歴史研究よりも現実に対する規範的研究のほうに大きく傾斜しているのかもしれない。歴史研究といえども程度の差こそあれ無意識のうちに現実に制約されているし、その意味では思想史研究はすべて研究者が置かれている状況に対する規範的含蓄を秘めているとすれば、こうした傾向にことさらに異を唱える必要はないように思われる。しかし、私にはそれがあまり好ましいこととは思われない。なぜならば、現実を分析して、一定の処方箋を提示するためにも、その現実を時間的、空間的に相対化するとともに、自らの立脚点をも同様に相対化する作業が不可欠であり、それはまさに歴史家の視点に立つということだからである。

川崎修敬氏の近著『エドゥアルト・ガンスとドイツ精神史:ヘーゲルとハイネのはざまで 』は、ひさびさに出た本格的な政治思想史研究である。この著作では、なによりも歴史的コンテクストの下に対象を位置づけることが重視されている。ガンスが活躍した時期、つまり対ナポレオン戦争の勝利から三月革命に至る所謂三月前期のドイツに固有の事情、そのなかにありながら彼やハイネのようなユダヤ人が置かれていた特殊な位置、彼に深甚な影響を及ぼした同時期のフランスの政治的、社会的状況、これらに常に目配りをしつつ彼の政治思想を分析することに著者は留意している。このように様々な次元で彼我の置かれているコンテクストの相違に注目することによって、ガンスがヘーゲルの弟子でありながら団体や社会階層の理解において師に残っていた前近代的な理解を払拭して、師の哲学をより近代的で自由主義的な方向へと転換したこと、歴史法学派との論争を通して時代に相応しい個人主義的な所有権を確立したこと、こうした彼の革新の背景には同時代のフランス、とりわけサン=シモン主義との出会いがあったこと、そして同じユダヤ人でありながらハイネは彼とは異なるヘーゲル解釈を引き出し、その結果ユダヤ人解放に向けた両者の方向性の相違が生まれたこと、といった本書の鮮やかな分析が可能になったのである。その結果、ガンスはヘーゲルをより自由主義的に解釈した点で、ヘーゲル右派に位置づける従来の解釈は不適切であるという、近年のガンス研究の潮流に棹さす本書の主張が提示されることになった。本書は、主役であるガンスと対比する人物が的確に選択されていること、対比する際にコンテクストに照らして重要な意味を有する論点が設定されていること、講壇哲学者ガンスを取り巻く社会的、文化的状況が周到に参照されていること等、政治思想史研究のお手本ともいえる出来映えである。

 しかし、それにもまして評者が強調したい点は、このように著者が禁欲的に当時のコンテクストに即して対象を理解しようと努力しているにもかかわらず、自から行間に現代に生きている著者の息づかいが聞こえ、ひいては本書が現代規範理論に対するひとつの参照軸を提示していることである。例えば、なぜ著者は、ガンスと歴史法学派との論争を彩る数々の主題のなかから、ことさらに人格の自由という概念を選び出したのか。そこには、矮小化した自らの自我を後生大事に守ろうとするビーダーマイヤー期のブルジョアジーと現代の大衆社会に生きる我々との親和性が看取されているのではないのか。あるいはまた、なぜガンスの論敵としてハイネが対照され、当時のユダヤ人問題に重大な一章が割かれているのか。いうまでもなく今日の規範理論においてユダヤ的なものがもっている意味が、念頭に置かれていると推測しても間違いではないであろう。おそらく規範理論に専ら関心のある読者でも、本書を読むことによって自らの問題意識の深化を覚えるはずである。
無論、著者が主題の選択や分析の方向性において、その現代的意義をすべて明確に意識しているわけではないかもしれない。しかし、すぐれた思想史研究とはそうしたものである。著者が自覚的に禁欲し、対象とする時代のコンテクストに忠実であろうと努力しているにもかかわらず、そこにいわば現代の地平と過去のそれとの対話が生まれており、読者は著者の暗黙の導きに従って両地平の間を自由に往還しつつ、現代を捉え直す眼差しを獲得することができるのである。本書は、社会的意義を強調するだけで深みのない数多の研究が生み出されているなかで、稀に見る清潔な思想史研究である。しかし、すべてのすぐれた思想史研究がそうであるように、却ってその清潔さの故に大きな現代的意義を秘めており、同時にまた長く研究史にも残る力作である。



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