記憶の彼方から……現代社会認識の原点
山田竜作著『大衆社会とデモクラシー――大衆・階級・市民』
によせて
藤原 孝 
(ふじわら たかし 日本大学法学部教授/政治思想史)

 戦後日本社会はさまざまな変容を見せながら、今日に至った。一九五〇年代は戦後の混乱をかすかに残しながら、それでも新たな社会への確かな胎動の時代であったように思われる。私はまだその頃は小学生でもあり、政治のことはよく理解できてはいなかったけれども、親しい同級生の父親が国会議員であったことなどから、ぼんやりとした関心はあった。やがて長じてその同級生ともども東京で大学生活を送ることになり、ご尊父とも親しく接していただくことになった。そして私は多かれ少なかれ、その政治家の思想的影響を受けることにもなった。彼の名を江田三郎という。氏はかつての日本社会党の中で、構造改革論を機軸としたいわゆる「江田ビジョン」を掲げ、これからの日本の将来設計を国民に熱く語りかけていた記憶が、今鮮明に脳裏をよぎる。江田ビジョンの根底に流れる通奏低音こそ、ポジティブな大衆社会の時代における市民社会論ではなかっただろうか。

「大衆」なる用語にどのようなイメージをこめるか、あるいはそれをどのように理論化するかによって、社会認識や政治への視座が異なってくることは言うまでもない。経済構造を含めた社会形態の反映として政治の多くはあるのだから。しかし私は普通選挙制度のもとにあっては、人はおのずから大衆の一人になる宿命を背負わせられていると考えている。それこそが政治的平等の最初の一歩なのだから。問題なのは自覚的な大衆であるか、そうでないのかである。かつて階級社会において(今なお階級は現存するとのむきもあろうが)、私たちは有権者を教養と財産を併せ持つ名望家層と呼び、市民とも呼んだ。そしてその特徴を自律的に制御され、リースマン言うところの内部志向型人間類型であると説明した。しかし時代とともに必然化する制限選挙制度の制限の緩和は、マンハイムが指摘した「基本的民主化の過程」であったことは間違いない。この基本的民主化の過程は、同時にデモクラシーの形骸化の過程でもあったところに歴史のアイロニーが潜む。選挙権の拡大が「市民」を「大衆」に置き換えたのである。内部指向型人間類型は、他者指向型人間類型に置き換えられたのであった。しかしこれは先にも言ったように、そしていみじくもトクヴィルもまた指摘したように、まさしく歴史の必然なのである。

しかしこの歴史のアイロニーを考えるとき、そこには「自由」の問題と分かちがたく連動しているという事実に直面する。政治的・社会的自覚を拒否すること、選挙を含めた政治参加を拒否することといった、「負」の自由もまた二〇世紀的問題として登場するし、負荷なき自由が隷従への道を用意することも私達の歴史は教えている。そうした視角が、凡庸で低俗であるとする大衆概念を形成するとき、私は常に政治学研究者の一人としてある種の痛みを感じ続けてきた。大衆を批判するときの自己の立場の自覚の問題である。みずからを大衆の中に位置づけるならば、大衆を突き放して批判することは到底できず、自己批判を含めた大衆批判になるべきであろうと考えてきた。むしろ批判の対象は、大衆そのものにあるのではなく、批判されるような大衆をつくり上げてきた社会そのものではなかっただろうか。マスメディアのジャーナリズムとしての姿勢が揺らぎ、教育の荒廃が指摘され、地域の共同性が崩壊し、その果てにポピュリズムが喧伝される。たとえばメディアは各種選挙における棄権者を無党派層と呼び、無党派層が選挙の行く末を決定するなどとの論陣を張る。こうした論陣はメディアの自己責任の放棄以外の何ものでもない。メディアに課された大きな仕事である政治教育はまったく忘れ去られ、棄権をする有権者を叱る勇気は最初から持たない。なぜなら棄権する有権者も又、メディアの購読者であり、視聴者であり、大切な顧客なのだからであろう。ジャーナリズムの負荷なき自由の一例である。

こうした状況に抗して、「大衆社会の時代における市民社会を構想しようとした」(本書二六六頁)松下圭一氏の大衆社会論を、氏の初期の著作からさかのぼって丹念にトレースしながら、その現代的有効性を探り当てようとして著されたのが、本書『大衆社会とデモクラシー――大衆・階級・市民――』である。私もかつて氏の『現代政治の条件』を手にしたとき、イデオロギー的言説から解放された鮮やかな切り口に、ある種の驚愕と同時にこれからの政治学を含めた社会科学の方向性を読み取った感覚が、記憶の彼方から甦ってくる。その後『市民自治の憲法理論』のあたりまでは氏の論考を読み継いできたのであったが、その後私の関心の問題の故か、それとも松下氏の向かう方向性の故か、疎遠になってしまった。しかし今、山田竜作氏の新著の中で松下氏の関心はいささかもぶれることなく、当初の問題関心から今日まで必然性をもって連続していることを教えられた。そしてそれは今日欧米の学界や論壇を賑わせている「公共性」や「公正」の議論の先駆的業績とも言うべく、「世界的にもユニークな大衆社会論として評価されなければならない」(本書二七〇頁)とする著者の指摘に思わず頷いてしまうのである。著者が松下理論にジョン・キーンを、ラクラウとムフを、さらにはデヴィッド・ヘルドの理論を相対化させるのも、これらに松下理論との親和性を発見したからのことであろう。こうした欧米の松下氏よりもずっと若い研究者達が思想営為を行うとき、彼らの念頭に松下理論がどういう形であったのか私は知らない。しかし時間と空間を越え、本著者山田竜作氏を含めて、デモクラシーを考える人々の頭脳と心の連鎖を想わずにはいられなかった。


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