マックス・ヴェーバーの心情倫理と責任倫理

──内藤葉子『ヴェーバーの心情倫理――国家の暴力と抵抗の主体』に寄せて
佐野 誠
(さの まこと・奈良教育大学教授

マックス・ヴェーバー(一八六四〜一九二〇年)が用いた心情倫理(Gesinnungsethik)と責任倫理(Verantwortungsethik)という言葉は、政治と倫理の関係を話題にする際、必ずと言ってよいほど引き合いに出される言葉である。特に政治家のモラルが問題となる場合には、心情倫理に対する「責任倫理の優位」ということが一般には強調されてきた。しかし、この責任倫理という言葉がヴェーバーによって用いられるのは、晩年の講演「職業としての政治」(一九一九年)に加筆された後半部分だけであり、しかもそれは心情倫理との緊張関係を強調する文脈においてである。一方、心情倫理の方は、「職業としての政治」以前のヴェーバーの『宗教的ゲマインシャフト』や『古代ユダヤ教』といった理論的著作にも単独で登場する言葉である。本書の著者はこの点に着目し、ヴェーバーにおける心情倫理が、近代国家や近代の主体的人間形成の上でどのような意味内容を持つのかを、正当な物理的暴力の独占を特質とする近代国家の内実、この国家に対する心情倫理的思考の対抗的関係、トルストイの非暴力・無抵抗に代表される「愛の無世界論」・愛の普遍主義の近代国家における存在可能性、キリスト教平和主義者フェルスターに対するヴェーバーの批判的言動、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を中心とする登場人物の両倫理的観点からする思考分析、そしてヴェーバーの言う「神々の闘争」に対するシュミットの反論等を通じて多角的・複眼的に探求しようとする。本書は、その表題にも暗示されているように、心情倫理に対して責任倫理を比較相対的に評価してきた従来のヴェーバー研究に修正を迫るものであり、類書にはない独創的な内容となっている。

以下では、本書を読む上での前提となる論点を二点だけ記しておこう。第一は、「心情倫理」という訳語についてである。『職業としての政治』についてはこれまで版を重ねた脇圭平訳があり(注1)、原語のGesinnungsethikは通常「心情倫理」と訳されてきた。しかし、以前からこの訳語に対しては論者から異議が出されていた。近年『職業としての政治』の新たな訳書を公刊した中山元や野口雅弘も、心情倫理ではなく、「信条倫理」という言葉をこれに当てている。その主たる要因は、福音の掟への信仰や共産主義者の強固な革命待望への信念に示されているように、ヴェーバーがこの言葉を「心情的なものというよりも、原理的なものとして提示し」(中山)、「ある大義に対する一定の確信に基づいた(しばしば結果を顧慮しない)コミットメント」をこの言葉が「含意している」(野口)ことにある(注2)。しかし本書の著者はあえて「心情倫理」を用いている。それは、この言葉が、

(1)カントの言うGesinnungを前提としたものであり、(2)外的な行為の結果とは関係なく、道徳や最高善と結びついた内的な精神や心の在り様を表現できるからである。著者は、このような観点から、信仰箇条や信仰告白の意味合いが強い信条倫理を用いなかった旨を述べている(「序章」注(6))。

以前指摘したことであるが(注3)、ヴェーバーの心情倫理を構想する上での示唆は、ヴィンデルバントの『哲学の歴史』のアベラールやカントに対する記述およびカントの『実践理性批判』等から与えられたと考えられる。ヴェーバーは一九一七年の「価値自由」論文で、倫理的行為の固有価値である「純粋意志」あるいは「心情」(Gesinnung)の格率と、予見可能な行為の結果に対する「責任」(Verantwortung)を考慮に入れる格率との永遠の闘争を提起し、この「形式的な」性格を有する二つの格率が、カントの実践理性批判の公理に類似していることを強調した。すなわち、ヴェーバーの場合、カントの言う普遍妥当的な「道徳法則」に対する尊敬を動機とする内なる精神や心の在り様を重視する「純粋意志」が、心情倫理概念を構成する原理となっているのである。言い換えれば、ヴェーバーのGesinnungsethikという言葉は、原初的には万人に通じる「道徳法則」それ自体への純粋な内面的、心情的な服従という意味が考えられており、必ずしも信条や信念、信仰という意味に限定されているわけではないのである。その意味で、著者の心情倫理という言葉の選択は妥当ではないかと思われる。

第二は、政治の領域における心情倫理に対する責任倫理の優位と意義についてである。確かに責任倫理という言葉は、『職業としての政治』においてのみ使用されているのであるが、概念史的には、ヴェーバーはすでに学生時代にユニテリアン派の神学者チャニングの心情倫理的思考に批判的に対処し、距離を置いている。また一八九五年のフライブルク大学教授就任演説「国民国家と経済政策」や翌年の国民社会連盟の設立総会時の発言、一九一六年の「二つの律法の間」や『世界宗教の経済倫理』の「中間考察」、そして上記の「価値自由」論文でも、政治の領域における責任倫理的、結果責任的要素の重要性を指摘しているのである。その理由を一言で表せば、現実政治においては「善からは善が、悪からは悪が生じる」ことが真ではなく、むしろその逆が真であるということである。絶対的無抵抗や非戦論に見られる心情倫理を現世で貫徹するためには、イエス・キリストやアッシジの聖フランチェスコ、仏陀のように一切の暴力を行使してはならない。私たち一人一人が聖者にでもならない限り、それは不可能である。政治は権力と暴力の独占をめぐる生々しい闘争であり、ときに悪魔と手を結ぶ。そうであれば、現実政治の論議から一切の心情倫理的な論議を排除する方が、より誠実な態度というのがヴェーバーの冷徹で醒めた現実認識であった。

著者は以上のような事実を十分に認識した上で、ヴェーバー政治論における心情倫理的思考の積極的な意義および近・現代における心情倫理の存在可能性を真正面から問おうとするのである。その学的姿勢は極めて真摯であり、脱精神化、脱宗教化、そして非人格化したコンピューター文化にどっぷりと浸かっている政治的に消極的になりがちな現代の私たちに反省と奮起を促すものである。と同時に、この姿勢は、主体的で一貫した政治的理想や堅固な信念を持つことへの勇気をも私たちに与えてくれるのである。

(注)
(1)脇圭平訳『職業としての政治』、岩波文庫、一九八〇年。
(2)中山元訳『職業としての政治/職業としての学問』、日経BP社、二〇〇九年、一三一頁、野口雅弘訳『仕事としての学問 仕事としての政治』、講談社学術文庫、二〇一八年、一九六頁。
(3)佐野誠『ヴェーバーとリベラリズム』、勁草書房、二〇〇七年、二〇頁以下。



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