マイケル・ウォルツァー『アメリカ左派の外交政策』を読む

中野 勝郎
(なかの かつろう・法政大学教授

本書は、そこに最後に収められているエッセイのタイトルとして用いられている「まともな左派」のための外交政策を説いている。「まともな左派」というのは、ウォルツァーが、「誰が左派ですか」という問いには「無限の回答」があるとのべているように、特定の理念やイデオロギーを掲げる「正統な(あるいは本物の)左派」のことではない。「まともな左派(a decent Left)」とは、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』や『絞首刑』で描き出したようなdecency(人間的なまともさ)を重視する立場であり、したがって、だれもが参集できる立場である。

「まともさ」をもつためには、他者への共感・配慮が必要となる。一九六〇年代のニューレフトにあっては、黒人公民権運動などを例外として、他者は観念的に想定されていたといってよい。経済的文化的に体制の重圧に苦悩しているアメリカ人民への共感は生まれなかったし、アメリカ帝国主義の犠牲者としてかれらが捉えた第三世界の革命的人民とは、言葉では連帯が叫ばれても、具体的な方策が実行されたわけではない。それにたいし、ウォルツァーは、「人間性の向上は自国において始まる」とのべ、不平等の解消をめざした活動を訴える。そうして、その人間性の向上の視線は、「海外の困窮者や同志」にたいしても向けられている。かれは、「自らや他者を守るために戦っている人々」、「民主主義と平等を本当に信じて実践している人々」に「道徳的、政治的、そして、経済的支援を提供」しなければならないと論じる。

「まともさ」をもつ左派は、アメリカの海外での軍事行動を民主主義と相容れない帝国主義的・軍国主義的行動として否定する左派とも、「被抑圧者は常に正しいという準則」を「被抑圧者のために行為する闘士たちは常に正しいという準則」に翻訳してしまう左派とも異なる。軍事力の行使や武力による抵抗は、被抑圧者の人間性を回復することができるかどうかという視点からその正当性が判断される。

このように、ウォルツァーは、他者への配慮から生じる道徳的な責任・義務を外交政策で果たしていくことを「まともな左派」の務めとして提示している。

道徳を政治にもちこむとき、そこには、普遍的正義の実現という問題が発生する。アメリカ外交の基調となってきた理想主義(idealism)は、トマス・ジェファソンの「自由の帝国」からモンロー主義を経てウィルソン主義(Mission Diplomacy)に結実する。ジョージ・ケナンが、それを「法律家的・道徳家的アプローチ」と批判し、国益の観点から現実主義(realism)的な外交を説いたのはよく知られている。ウォルツァーの説く外交政策は、これら二つの外交方針に照らして理解することができるのではないか。かれは、「グローバルな正義」の実現を訴え、人道主義的介入は「普遍的義務」であると主張する。そして、「より平等なグローバル社会が必要なのである」とものべている。それらの言葉に、ウィルソン主義的な理想主義・普遍主義を読みとることができるだろう。しかし、ウォルツァーは、「世界市民主義」を「グローバル主義的なイデオロギー」であるとして排している。また、かれは、「国内で目指すのとまったく同種の正義を国外で目指すことはできない」という。理想主義が含む普遍主義的な契機と現実主義が含む特殊主義的な契機とが対立しながら共存しているのがウォルツァーの立場である。

ウォルツァーによれば、グローバルな正義の物語を排他的独占的に語り、かつそれにもとづいて行為しうる主体は存在しない。どのような正義の物語であれ、それがすべての人におなじように理解されることはない。しかし、「グローバルに適用されるべき批判」の根拠は存在する。では、どうすれば、個別性が承認されつつ普遍的なるものが達成されるのだろう。

ウォルツァーは、世界は「複数の人間共同体」の集まりであり、「共通の参照領域、共通の歴史や文学、共通のコミットメント」により形成される「差異と不一致」に満ちていると論じる。「まともさ」とは、そのような多元性の承認のことでもある。多元主義を掲げるウォルツァーは、「われわれ」の範囲を定めるべきだと説く。「われわれ」とは、時間的にも空間的にも限定されなければならない。すなわち、ある特定の場所で発生している「個別具体的な人間の苦痛」を「いま現在」という暫定的な規則にしたがって修復していかなければならない。グローバルな正義の実現は、このような個別的暫定的な修復作業を繰り返すことでしか実現されない。

このようなウォルツァーの思考方法は、ジェイムズ・マディソン、エイブラハム・リンカンもその文脈に位置づけられるプラグマティズムとして捉えることもできるのではないだろうか。オバマ前大統領の政治についても言及されているプラグマティズムは、「不確実なるもの(contingency)」を擁護するがゆえに、相対主義であるとの批判を受けてきた。ウォルツァーは、人道的見地からの他国・他地域への干渉(および撤退)を「現地での正当性」、すなわち、「現地の政治文化に合致」することを行為原則として提示している。かれは、その原則について事例を挙げて説明しているが、「可能なかぎり」の「副次的被害」を介入者が現地の人びとに受け入れさせることはできるのだろうか。「副次的被害」を受忍させるためには、それによって達成される新たな状態がかれらに了解されうるものでなければならない。その新たな状態とは、「普遍的な価値」へ向けての一里塚である。しかし、介入者が依って立つ「普遍的な価値」は現地の政治文化にたいしてどのようにして受容されていくのだろうか。ウォルツァーは、その作業が困難であることを認めている。それでも、かれは、たとえば、イスラミズムとの「イデオロギー戦争」を闘う(それは知的な論争である)ことによって、「西洋」に現れた「普遍的価値」がイスラム世界においても共有される可能性に賭けている。特殊主義と普遍主義は架橋されている。

ウォルツァーが構想しているのは、異質性を保障しながら調和する世界である。かれは、本書で触れていないが、それは、「多からなる一(E Pluribus Unum)」を国璽として掲げたアメリカ合衆国の理念であった。これは、国内政治においては、アレグザンダー・ハミルトン的な方策によって、外交においては、ウィルソン主義的な方策によって、「Pluribus」は「Unum」のまえに失われてきた。本書を読んで印象に残ったのは、アメリカ建国の理念とウォルツァーの構想する世界との重なりである。それが意図的なのかわからないが、ウォルツァーもまた、失われたアメリカ合衆国の伝統を掘り起こしているように思える。



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