イスラム主義を全体主義として分析するという本書の試みは、二一世紀という時代的な要請という観点から、魅力的な営為である。もちろん、イスラム主義という用語自体がこれまでも論争の対象となっており、英語圏ではイスラミック・ファンダメンタリズム(イスラム原理主義)や政治的イスラムなどという用語が使用されたりしている。日本では「イスラム復興主義」という用語もかなり広範に使われてきた(この用語の問題については、拙著『原理主義』岩波書店、一九九九年、を参照されたい。現在はKindle版で講読可)。
本書を読みつつ、私自身が学生時代に取り組んでいたテーマを思い出した。私自身が当時興味をもっていたのが、両大戦間期のイギリス委任統治期パレスチナで活躍したハーッジ・アミーン・アル・フサイニー(一八九五?〜一九七四年)という、ユダヤ人に対するジハードを呼びかけたイスラム指導者だった。大ムフティーとイスラム最高評議会議長という宗教的公職をもつ人物で、「宗教的ファナティズム」の政治指導者とみなされていた。私が卒論を執筆した時期はイラン革命勃発の時期だったことも影響していた。ハーッジ・アミーンはパレスチナ・アラブ大反乱(一九三六〜三九年)の指導者に祭り上げられたため、委任統治政府によって逮捕状が出され、一九三七年にイラクに亡命した。その後、イギリスの「敵の敵は味方」の論理でナチス・ドイツに亡命し、ボスニアで編成されたムスリムのナチス武装親衛隊の一部隊などと協力し、大戦後にパレスチナに戻った。故アラファトPLO議長の母方が血統的にフサイニー家と繋がるため、アラファトとハーッジ・アミーンはイスラエルやシオニストによってナチズムとの関係を殊更に強調されて貶められ、長い間、パレスチナ解放運動は国際的に「親ナチス」の烙印を押されてきたというおまけまでついている。
本書に関連してハーッジ・アミーンを取り上げたのは、当時の研究動向の中で彼のユダヤ人へのジハード論が「ファシスト的」であったのかどうかが議論されていたことを思い出したからである。同時代的には、レバノンにはファランジスト(ファランヘ)党、エジプトには青年エジプト、シリアにはシリア社会民族主義党などの「ファシスト的」な傾向を持つ諸政党が成立していたので、モザッファリのような議論がなされるのも当然といえばいえなくもない。アラブ世界における「ファシスト的」諸潮流は大戦間期を中心に高揚したものの、第二次世界大戦における独伊の枢軸国の敗北で後退することになった。
本書の著者であるメフディ・モザッファリは、ハンナ・アーレント的な意味での全体主義の概念を援用してイスラム主義の歴史と現状を分析している。両大戦間期のファシズム、ナチズム、スターリニズム(そして日本の軍国主義も含めれば日本の読者としては一層興味深かったかもしれないが)といった全体主義と同じような政治現象して現在のエジプト、サウジアラビア、イランなどを中心とする国々でのイスラム主義を問題化しようとしている。
著者のモザッファリはイラン出身の比較政治学の研究者で、一九七九年のイラン革命を機にイランを離れ、現在ではデンマークで教鞭をとっているという。著者の関心のあり方は本書の章立てに如実に反映されている。第一章「イスラム主義の研究はなぜ重要か?」と題して方法論を検討する。第二章「イスラム主義のイデオロギー的起源」ではスンニー派とシーア派それぞれの源泉を探る。第三章「ヨーロッパの全体主義との比較で見たイスラム主義の勃興と進化」においては、イスラム主義の進化を四段階に分けてムスリム同胞団指導者のバンナからISIS(イスラム国)までを議論する。第四章「シーア派の急進化」では、イラン革命を参照基準にして、扇動、蜂起、革命、そして革命後という段階ごとに分析する。第五章は「イスラム文明のグローバル化と復活」と題して、ブローデルの「文明」の定義に依拠してイスラム文明の勃興と衰退を説明する。第六章では「イスラム主義と表現の自由」というテーマの下に、世俗主義、近代性、ラシュディに代表されるムハンマド冒?や風刺画などの問題を扱っている。第七章「イスラム主義と「友好」・「敵意」という未解決問題」では、カール・シュミットの友敵理論に基づいてバンナ、クトゥブ、ホメイニ、ビン・ラーデインなど指導者を分析している。第八章「イスラム主義と世界秩序」においてはイスラム主義者の世界観とその強みと弱みを巡って議論し、第九章は書名と同じタイトル「イスラム主義──新たな全体主義」と題して、ハンナ・アーレントの議論に基づいてイスラム主義を二一世紀の新しい全体主義として位置づけて、そして第一〇章が結論に相当する。
現在のイスラム主義を全体主義の文脈で分析することは、時代・地域を超えた比較という視座からは意義がある。ただ、かつて山口定がファシズム・ナチズム・軍国主義の比較研究で提唱したように(『ファシズム──その比較研究のために』有斐閣選書、一九八〇年。岩波現代文庫、二〇〇六年)、思想・運動・体制という観点から見たとき、イスラム主義が体制として成立している例としてはイランとスーダンを挙げることができるだけである。あるいはすでに崩壊した「イスラム国」も含めることもできるかもしれない。かつてフランスの政治学者ジル・ケペルも指摘したように、思想・運動の観点からはともかくとして、政治体制としてイスラム主義が成立している例は極めて少ないこともたしかなのである。
もちろん、親米王制のサウード家とワッハーブ派が同盟したサウジアラビアを全体主義として分析することができるかとなると同国の人口規模・構成からはやはり問題を孕んでいる。ある概念で特定事象を説明することの困難さを示しているといえなくもないからである。とはいえ、全体主義の比較研究という観点から本書は重要な問題を問いかけると言えることはたしかである
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