品位ミニマム(Decent Minimum)の奨め

──A・マルガリート著『品位ある社会──〈正義の理論〉から〈尊重の物語〉へ』に寄せて
添谷 育志
(そえや やすゆき・明治学院大学名誉教授

今日「品位ある(ディーセント)社会」への道徳的構想に正面から取り組んでいるのは、アヴィシャイ・マルガリートである。彼によれば「品位ある社会とは、その制度が人びとに屈辱を与えない社会である。私は、品位ある社会と礼節ある(シヴィライズド)社会とを区別する。礼節ある社会とは、社会のメンバーがお互いに屈辱を与えない社会のことである。これたいして、品位ある社会とは、社会の諸制度が人びとに屈辱を与えない社会である。したがって、たとえば、共産主義体制下のチェコスロバキアを品位にはもとるが礼節ある社会であると考えることもできるし、品位はあるが礼節を欠くチェコ共和国というものがあると想像することも、まったく矛盾することなく可能である。」(本書、一三頁)。

マルガリート自身も認めているように、制度が具体化されるのは個々人の行動を通してであるかぎり、具体的場面で「品位ある社会」と「礼節ある社会」を区別することは困難である。それにもかかわらず彼があえて「制度」に焦点を当てようとするのは、彼の関心が「ミクロ倫理学」ではなく「マクロ倫理学」にあるからであり、後者の主流である「正義にかなった社会」(ロールズ)への批判を意図しているからである。ロールズの原書の書名がA Theory of Justiceであるのにたいしてマルガリート原書の書名がThe Decent Societyであることは、本書が「品位ある社会」への道徳的構想の唯一無二(・・・・)の決定版であることを示している。

ところで評者がマルガリートという名前を知ったのはイアン・ブルマとの共著『反西洋思想』(堀田江里訳、二〇〇六年、新潮新書)によってであった。一読して非西洋諸国における反西洋思想が、西洋内部における反近代思想に源泉を有するというパラドックスを明快かつ平易に説明している点できわめて有益だった。さらにわたしが本書の書評を引き受けるきっかけとなったのは本書の「訳者あとがき」でも述べられているように、マイケル・イグナティフ『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』(添谷育志・金田耕一訳、風行社、一九九九年)を翻訳したことにある。

わたしはイグナティエフに触発されて論説「「見知らぬ人びと」の必要──M・イグナティエフの問題提起をめぐって」(拙著『近現代英国思想研究、およびその他のエッセイ』二〇一五年、所収)において以下のように書いた。

このようにみてくると、イグナティエフのいう「品位ある社会」はむしろマルガリートのいう「礼節ある社会」の概念に近いと言える。イグナティエフが問題にしているのは、囚人や患者に対する「目つきや身振りやとり扱いのなかに、管理する側がひそかに抱いている侮蔑」や、福祉受給者に対する役人の「相応の尊敬と思いやり」の欠如であり、貧しい高齢者にたいする年金給付や医療介護サービス提供の際のマナーなのである。「つまり、わたしの住まいの戸口の見知らぬ人びとが身の上話をするときにソーシャルワーカーの人たちがそれに耳を傾けてくれるかどうか、集合住宅の急な階段を運び降ろすときに救急隊員の人たちがかれらを激しく揺すぶることがないように気を配ってくれるかどうか、かれらが病院で独りきりで怯えているときに看護婦の人たちが付き添っていてくれるかどうか、それが問題なのだ。尊敬と尊厳はこのような身振りによってこそ授けられる。こうした身振りは人間的な(わざ)の部分があまりに多すぎて、融通のきかない行政の定型業務にはなじまないのだ」(邦訳、二五頁)。(上掲書、四四九頁。人名は本書の表記に合わせた。)

もう一点わたしが本書の書評を引き受けた理由はマルガリートがこう書いている点である。

私の考えに一番ぴったりな品位ある社会のラベルはオーウェル流社会主義ならぬ「オーウェルの社会主義」である。オーウェル流社会主義は、平等な人間からなる人間的な社会ではなく、平等からさらなる平等をもとめる動物農場である。オーウェルはきっと品位ある社会という考えの発想の重要な源泉であり、オーウェルが社会主義者であったという意味で、品位ある社会はオーウェルの社会主義を具体化したものなのである(本書、一七頁)。

評者の考えるにマルガリートがオーウェルを引き合いにだすのは、『一九八四年』(一九四九年)に描かれたおぞましい光景が念頭にあったと思われる。『記憶の倫理学』(二〇〇二年)の著者であるマルガリートにとって、記憶を捏造し歴史を歪曲する「ビッグ・ブラザー」による支配体制はまさしく「品位」にもとるものなのだ。さらにマルガリートは「品位ある社会」を実現するうえで「制度」の重要性を各所で指摘している。「制度」とは実定法体系のことにほかならない。その意味で「刑罰制度」について詳細に検討している点(本書、二四九頁以下)は卓見である。マルガリートがオーウェルから学んだのは、まさしくバーナード・クリックが言うように「普通の人びとあいだには「自然な道徳的品位」があるという、彼が生涯抱きつつげた強い信念である」(『ジョージ・オーウェル──ひとつの生き方』下巻、河合秀和訳、岩波書店、二〇〇〇年、三四四頁)。

さらにもう一点補足すれば評者が本書の訳者のひとり日本大学経済学部教授金田耕一先生と話し合ったエピソードを紹介しておこう。わたしたちは現代社会において必要なのは、物質的豊かさを充足するための「福祉ミニマム」(Welfare Minimum)なのか、それとも「品位ミニマム」(Decent Minimum)なのかについて議論した。多くの政治学者は前者を優先させるが、評者と金田教授とは後者によって補足されないような物質的豊かさだけでは不充分だという点で意見が一致した。

なおブレディみかこ女史は、彼女が勤める託児所で、ある男性が癌に罹り死亡したさいに支援センターの人びとが「召された。という言葉がこれほど似合う死人を、わたしは他に知らない。」(『子どもたちの階級闘争──ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、二〇一七年、二七九頁)という感慨を述べたという。ここにこそ「品位ある社会」の実例がある、とそう評者は思うのである。最後になったがマルガリートの晦渋な英語を、こなれた日本語に翻訳された訳者諸氏のご努力には心からの敬意を表する 。


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