デモクラシー直前の政治思想

──遠山隆淑著『妥協の政治学──イギリス議会政治の思想空間』に寄せて
宇野 重規
(うの しげき・東京大学教授

『 一九世紀のイギリスにおいて「ウィッグ」と呼ばれた知識人や政治家の議会政治論──それだけ聞くと、なんだか古くさい話に聞こえるかもしれない。しかも主題は「妥協の政治学」だから、デモクラシー以前の、いわゆる名望家と呼ばれた人々の因習的な政治論を想像してもおかしくない。が、興味深いことに、本書の読後感はまったくその逆である。ポピュリズムが叫ばれる今日にあって、むしろきわめて斬新な政治論にも見えてくる。その逆説について考えてみたい。

本書の著者も認めるように、バークからバジョットに至る「ウィッグ」の知識人や政治家の思想は、ある意味で「デモクラシー直前の政治思想」である。第一次から第三次に至る選挙法改正を経験するなかで、これらの人々は都市労働者や農村の新たな有権者たちの台頭と向き合うことになった。イギリスの国制は、これら新たな有権者たちを取り込んでいけるのか。デモクラシー勢力の伸張を肌で感じつつ、イギリスの伝統的な政治秩序とそれをどう折り合わせて行くかに、彼らは知恵を絞ったのである。

この時期の興味深いキーワードの一つに「性格(キャラクター)」がある。それは個人の性格というよりも、歴史的に形成された国民性に近い。イギリス人にはイギリス人の「性格」、フランス人にはフランス人の「性格」があるというわけだ。かといって、よくある「イギリス人は〜と考えるとき、フランス人は〜をする」という類の無邪気な(かといって罪がないわけではない)国民性論とは違う。彼らが展開した「性格」論とは、ある意味で、もっと政治的な話であった。

「ウィッグ」の著作家たちは例えば、ある国民は「自由な統治」を形成できる性格を持つが、ある国民は専制政治に適した国民性を持つという。すなわち、およそどの人民にも主体的に政治秩序を形成する能力があるわけではない。どのような条件を与えても、秩序を作り出すことができない人々もいるというわけだ。そのような人々はより優れた人々による専制政治に服するしかないというように、容易に植民地統治の正当化につながりかねない議論とも言える。

その意味で、いかにも一九世紀的な議論だと切り捨てることは容易い。しかしながら、およそある国民において憲法や政治制度を論じるにあたって、抽象的な制度やルールだけを論じていれば十分かといえば、そうではないだろう。その国家の基幹となる制度やルールは、やがて国民との間に相互作用をもたらし、その国民にとって血肉化することで安定化する。逆に、国民性と国制との間にどうしても懸隔が生じてそれがうまく行かないこともあるだろう。「ウィッグ」の論客たちは、「自由な統治」を保持するための「性格」を、選挙権拡大後のイギリスがいかに保持するかに腐心した。その努力は、憲法制定後七〇年をへて、今なお「押しつけ」か否かを論じる政治家の絶えない某国にとっても考えさせられるものがあるだろう。

「世論」についても、現代の私たちは、調査などによって集められる日々変化する数量的データとしてのみ捉えがちである。しかしながら、「ウィッグ」の知識人や政治家にとって、「世論」とはもっと具体的で、安定的なものであった。それは選挙制度を通じて国民の多様な意見を集約したものであり、社会における多様な利害を反映しつつ、公共的な見地を持つに至った多数派の共通の「感覚」に他ならなかった。そのような国民の共通感覚に支えられる「世論」があってこそ、「自由な統治」も可能になると彼らは論じたのである。それゆえに選挙制度のあり方は、彼らにとって死活的な重要性を持っていた。地域別の選挙区制度もまた、そのような「世論」を抽出するための仕組みであった。

「共通感覚」といえば、本書がエピグラフとして掲げている英文学者の深瀬基寛の言葉が興味深い。「共通感覚の政治的表現が議会政治であるとすれば、議場のつかみ合いの矛盾を笑い得る能力がヒューモアの感覚である。全く論理的にシェイクスピアの国だからこそ議会政治が発祥したのである」。英国をモデルに、政治にヒューモアが欠かせないというコメントは、つとに丸山眞男らによって指摘された点である。エリオットやバジョットらを論じた優れたイギリス文学の専門家もまた、共通感覚と議会政治の結びつきを強調しているのが注目される。この感覚こそが、本書を貫く基調ともなっている。

その他にも、政治を支えるのがリーダーシップであると同時にフォロワーシップであり、大切なのがフォロワーたちの「信従心(deferenceが原語であるが、翻訳するのが実に難しい)」であるという指摘も、今日の政治状況を振り返ると示唆的である。誰もが「自分が、自分が」といえば、政治は成り立たない。かといって、リーダーにすべてを一任するカリスマ願望の危険性を知る私たちとしては、リーダーとフォロワーの間の望ましい信頼関係とは何かを、つい考えてしまう。本書はそのような読者にとっても興味深いものであろう。

「妥協の政治」とは、社会の多様な意見を排除することなく取り込み、一定の結論を下した後もなお、その多様性を保持することに他ならない。そのために求められる政治的技術がいかに高度なものであるかは強調するまでもないだろう。

私たちはそのような政治的技術を今こそ求めているのかもしれない。デモクラシーを相対化する視点を持つ「デモクラシー直前の政治思想」が、「デモクラシーの迷走」に悩む現代人にとって示唆的な理由である 。



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