「近代性の背後には合理主義があり、その合理主義は滑稽なほどの一途さと視野狭窄によって当初は嘲笑を誘う一種の喜劇を生じさせるが、やがてはその普遍主義のゆえに鋼鉄の檻と化し、高貴な人間性の抑圧と形骸化という悲劇に至る。」──ニーチェやウェーバーに端を発しポスト・モダンの潮流を通底するこうした近代観の流布とともに、政治学においては、マキァヴェッリをそうした悲劇的近代の出発点に置く解釈が一般化した。心情倫理と区別された政治的責任倫理の主唱者。フィレンツェ共和国の弱体化とイタリアの蹂躙という悲劇的運命のフォルトゥナに共和的自由をもって対抗しようとした愛国主義者。真理の複数性という現実に臆することなく直面した道徳的多元主義者。理想国家理念の無力性を批判した権力政治論者。こうしたマキァヴェッリ像はいずれも、分裂の運命の前での人間の非力さを嘆くマキァヴェッリの「悲劇作家」としての側面を強調している。しかし本書は、マキァヴェッリの「喜劇作家」としての半身を強調し、かれの生前の最高の名声のもととなった戯曲に着目する。とはいえマキァヴェッリの文芸諸作品とその政治思想的含意の検討というだけなら、従来のマキァヴェッリ研究にも多くの蓄積がある。本書の個性は、マキァヴェッリの文芸作品に最も顕著な「喜劇性」に近代哲学の普遍主義的特徴を見いだし、その喜劇性の哲学をもってマキァヴェッリの政治哲学とその近代性をあまねく解読しようとする大胆な意図にある。
本書が示唆を受けているのは、先述のもろもろのマキァヴェッリ像にもまして「科学者マキァヴェッリ」像をマキァヴェッリの近代性にかぎりなく接近しつつもすんでのところで的を射損ねた惜しい解釈であるとする、レオ・シュトラウスのマキァヴェッリ解釈である。シュトラウスは、ニーチェのソクラテス論を批判すべく、近代合理主義とは区別される古典的合理主義をソクラテスのうちに見いだそうとしたことで知られるが、その際にシュトラウスは、(近代)合理主義の発火点をマキァヴェッリに求めることによって、ニーチェの「ソクラテス問題」を自身の「マキァヴェッリ問題」によって置換した。マキァヴェッリと近代合理主義の関連を正面から問うシュトラウス的解釈の延長上に位置する本書は、マキァヴェッリ政治哲学ひいては近代合理主義の「近代性」の核心を、「人間喜劇」の構想に見いだそうとする。
『マンドラーゴラ』、『ベルファゴール』、『クリツィア』。これらの喜劇作品に表現された、(プラトン的宮廷文化に対比される)哄笑的民衆文化(の哲学化)こそが、マキァヴェッリ政治哲学読解の鍵である。マキァヴェッリはその「人間喜劇」の構想によって、此岸における人間の力による永続的秩序の確立──始源への回帰による革命をつうじた、現世における変転と革新による秩序の維持拡大──を実現しようとしたのである。「政治的主著にみえる「イタリアの悲劇」の証言者としてのマキァヴェッリの半身があまりに鮮烈で魅力に富んでいるために、これまで研究者らは、それの背後に存するいまひとつの半身、つまり「喜劇作者」の側面を忘却してきたように思われる。……二篇の喜劇作品に確認される「人間喜劇」commedia umanaの展望は、明白に『君主論』および『ディスコルシ』の核心部分に浸透している。マキァヴェッリの政治哲学は、彼岸ならざる此岸において、しかも人間的配慮をもって大団円を成就せしめんとする展望を提示したために、史上空前の新しさを帯びることとなったのである。」(三七八頁)
本書の独創性が、喜劇作品を軸にマキァヴェッリ政治哲学の近代性を解読するその手法にあるとするならば、本書の白眉は、「此岸における人間の力による永続的な秩序刷新」というマキァヴェッリの政治的教説を、革命の原義としての天文学から宇宙論(=マキァヴェッリの自然哲学)へと遡及しつつ、プトレマイオスの占星術的世界像(=運命論的悲劇)とルクレティウスの偶然的原子論(=人間喜劇)とのマキァヴェッリにおける拮抗へと落とし込んでいくその論旨展開(第四章および第五章)にあるといえよう。
書簡などの分析を通じた伝記的背景の詳細な参照。『ディスコルシ』のテクスト解釈による政治哲学の「人間喜劇」性の論証。ルネサンス期の占星術やエピクロス主義の文脈をふまえつつ、「革命」や「科学」の原義から普遍的啓蒙の意義へと接近する哲学的考察。本書ではこれら三つの要素が組み合わされて、エビデンス、ロジック、レトリックを伴った説得力をもって読み手に迫ってくる。フィレンツェの政治史的コンテクストや、「ルネサンス人文主義」などの思想史的ないしイデオロギー的コンテクストはほぼ捨象されているだけに、逆にマキァヴェッリの哲学(史)的背景の複雑さが浮き彫りになる。(文学史上の位置づけは紹介者には判断できないが。)欧米の先行研究にも類例を見ないオリジナルな視点と論証水準の高さだけでなく、著者独特の重厚な名文調の文体もあいまって、「読ませる」マキァヴェッリ研究がここに登場した。
本書はまた、文芸の政治的・哲学的性格の解明を介して、哲学と詩と政治の関係という古典古代以来の問題がなお未決着であることをも想起させる。三者の関連のさせ方として、プラトン的でもニーチェ的でもないマキァヴェッリ的な仕方があることは少なくとも確かであろう。「政治的なもの」のあらゆる可能性を考えさせてくれるマキァヴェッリの姿が、本書によってまたひとつ開示されたようである。