アメリカで活躍するイギリス人社会科学者エレン・ケネディが、カール・シュミットとフランクフルト学派との関係について、独文雑誌『歴史と社会』(一九八六年四号)に「カール・シュミットと『フランクフルト学派』──二〇世紀におけるドイツ自由主義批判」という論文を、英文雑誌『テロス』(一九八七年春季号)に「カール・シュミットとフランクフルト学派」という論文を発表し、フランクフルト学派の人々はカール・シュミットから一定のレベルで学んでいると主張したのであるが、これに対して、アルフォンス・ゼルナー、ウルリッヒ・K・プロイス、マーティン・ジェイが厳しい批判論文を書いた。こうした一連の論文に関してケネディは、彼女への批判論文が掲載された同じ雑誌において再反論しようとしたが、当該雑誌より拒否され、他の雑誌において再反論を行わざるを得なかった。こうした、ケネディの諸テーゼに関する学問的論争のことを一般に「ケネディ論争」と呼ぶ。本書は、この論争を、シュミットとユルゲン・ハーバーマスとの議会主義批判を中心にして取り扱ったものである。(ちなみに、わが国におけるシュミットとハーバーマスに関する論考としては、服部平治・宮本盛太郎「J・ハーバーマスのC・シュミット論」(『政治経済史学』二六八、一九八八年)、宮本盛太郎「カール・シュミットとユルゲン・ハーバーマス」(『歴史と社会』一九八九年)、宮本盛太郎「ハーバーマスvsケネディ論争をめぐる風景」(『未来』No. 270、一九八九年)、渡辺康行「カール・シュミットと現代西ドイツ憲法学──シュミットとハーバーマスをめぐる最近の論争を機縁として」(『比較法研究』五一号、一九八九年)がある。)
ところで、本訳書のために寄せられた「日本語版へのまえがき」において、著者は、カール・シュミットとハーバーマスの比較、ハーバーマスにおけるシュミット受容というテーマに関しては、本書において「決着がつけられた」と断言している。なぜなら、本書は、「現代ドイツにおける不毛な左右の精神的・イデオロギー的な対立状況」を乗り越えるために、「事柄に即して」それぞれの議論を根拠づける必要があるとして、C・シュミットとJ・ハーバーマスの議会主義に関する議論をテキストに即して分析し、その共通性と差異性を明らかにしているからである。まず、シュミットの議会主義批判に関する分析において、著者は、例外状況と主権概念、民主制理解、代表(再現前)の本質、議会制システム、議会主義への諸々の対案について検討しながら、シュミットの国家理論的構想の諸限界を示している。また、ハーバーマスの議会主義批判に関する分析においては、ブルジョア的公共性(公開性)の政治的機能と理念の分析、とりわけ、公共性の社会的かつ政治的な機能転換について、シュミットの再現前(代表)概念や法律概念、政党分析などに依拠しながら、明らかにしている。しかし、ハーバーマス自身は、シュミットの決断主義は「合理的・自由主義的な思惟の批判から現出」したものであり、シュミットの議会主義批判は「自由主義との一つの仮借のない断交」であるとして、シュミットは「政治的意思形成に導かれた合理性の諸表象を誤認」しているのであり、「公共的討議を議会における諸事象に縮減(還元)し、その公共圏との関係を度外視している」と批判していることから、著者は、確かにシュミットの批判は「西欧的合理主義の核心」に的中しているけれども、このシュミットの批判に対し「決然として対決することを試みている」人物こそまさにハーバーマスであることを強調している。
だが、本書では、そのハーバーマスに対しても批判が加えられる。すなわち、ハーバーマスの、「支配から自由なコミュニケーション」による批判的公共性の再建の具体的な方法が不明確であること、「ブルジョア的公共性(公開性)の理性批判的な性格をあまりにも誇張して描いている」こと、「議会と国民的公論との相互作用は虚構である」こと、彼の「公共性(公開性)概念は歴史的検証に堪えない」こと、さらには、「彼の個人的な価値システムの立場からのみ現代議会主義を批判し」ているので、彼の主張には「現実に正しく即していない」点があることなど、多くの点で批判されている。
にもかかわらず、ハーバーマスとシュミットとの間には「議論上の親和力」があり、ハーバーマスの政治的公共性にはシュミットの影響がみられるだけでなく差異も認められることを、著者はケネディ論争にからめて以下のように指摘する。すなわち、双方は、人間的理解において異なるし、主権理解においても真っ向から対立しているけれども、法実証主義や形式的法治国家に対する批判において共通していること、再現前(代表)及び再現前的公共性(公開性)概念において一致してはいるが、その展開の評価において異なっていることを指摘する。また、民主制理解において、ケネディは、ハーバーマスとシュミットの双方とも、「治者と被治者の同一性」に関して一致しており、ハーバーマスの民主制はシュミットのような、一つの同質的共同体においてのみ実現すると指摘しているが、この同質性および同一性という共通性を、テキストの事例をもって証明できないのであり、ケネディの主張は正しくないこと、確かに双方の「反リベラルないし反自由主義的な感情は民主制観の最小限の共通項とみられうる」が、ケネディの主張とは異なり、ハーバーマスの民主制理解に関してシュミットとの共通性は証明できないこと、さらに、ケネディは、ハーバーマスのシュミット受容は初期だけでなく全般に認められると主張しているが、ゼルナーやプロイスの主張するように、ハーバーマスの市民的不服従に関してシュミット受容は認められないなど、著者は指摘している。
かくして、著者は、結語として次のように述べている。ハーバーマスは、彼の議会主義分析のかなりの部分で、「形式的にカール・シュミットの議論を利用した」のであり、再現前(代表)などさまざまな概念をシュミットから受け入れている。しかし、「支配の諸表象と民主制の諸表象は一義的に対立している。シュミットの民主制表象とハーバーマスのそれとの一致可能性についてのケネディの諸々の思弁は、ここでは退けられなければならない。分岐している公共性(公開性)概念は、異なる精神の態度を示している。ハーバーマスが公共(公開)的な討議への信仰を促進しているとすれば、シュミットには、一つの同質的民族(人民)の大衆忠誠が追求する価値のあるものと思われている」と。すなわち、ハーバーマスによるシュミットの概念受容は認められるにしても、その方向性は大きく異なっている、と。
いずれにしても、著者は、今日のシュミット・ルネサンスの理由として、「あらゆる重要な問題領域に臨在しているシュミットとの知的な論争の中に、われわれの現代的諸国家の将来の諸問題を概念的に把握するための一つの鍵があることを、予感し始めている」ことを挙げ、「シュミットを研究することは、諸々の概念性において思惟することを学習することであり、この数世紀における国家と社会の領域における意義深い概念的な価値転換を自覚すること」であるとして、シュミット研究の意義を強調しながら、そのためにも、シュミットと「然るべき距離」をとること、しかも、「その距離を事柄に即して根拠づけること」の必要性を指摘している。その意味において、本書は、「シュミットとハーバーマスの議会主義批判」に関するすぐれた分析の書であるだけでなく、「オリジナルのシュミット批判そのものとして」高く評価されるべき書と言えよう。
ところで、本訳書には、訳者による「解題にかえて──理性(ratio)と意思(voluntas)の相互限定」が付されていて、本書をより広い視点から考察するための手がかりとして、主要概念に関する丁寧な解説が供されている。また、本文の訳語に関しても、原語とともに二つの意味が併記されていて、読者の利便を図ろうとしている。さらに、本訳書には、詳細な目次の他に、「パラグラフごとに原本にはない訳者による見出し語ないし要点」が付されている。それは、おそらく、本書の内容が難解なため、読者の理解に資するように、「目次の項目」と「見出し語ないし要点」を手がかりに「論証の輪郭と要諦を把捉」してもらいたいという、親切心によるものと思われる。ただ、要点に関しては、かなり長いものもあり、かえって繁雑と受け取る者もいるかもしれないという印象を得たのは、筆者だけであろうか。とは言え、本訳書が、全体にわたって訳者の想いのこもった一書であることに間違いない
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