戦後日本の自己認識が、全く思いもよらなかった言葉で論じられる不思議な本だ。著者は、日本が「独特の国家体制」を有し、それは「日本なりの紛争後[第二次大戦後]の『平和構築』」、すなわち「大規模な体制転換後の国家再構築のプロセス」を通じて作り出されてきたその仕方に起因するものだという。著者は平和構築の分野で第一線で活動する国際政治学者である。あえて「活動」といったのは、著者が現場の国際政治学者だからだ。紛争地に足を踏み入れ、そこで文字通り体制がリセットされ、平和が構築される様を現場で観察し、考察を進めてきた。
その著者が、日本の「紛争後」のプロセスを見るとこのように見えるのか、「戦後の国体」のねじれをこのように論じる方法があったかとハッとさせられる、そんな本だ。著者は、本書冒頭で「今や日本国憲法の国際協調主義は、瀕死の重傷を負っていると感じる。このまま死に絶えてしまう恐れすらあると思う」と、危機感を露わにする。ここだけ読むと、安倍晋三政権の下で進む安全保障政策の見直しに危機感を抱いているのかと思いきや、読み進めていくと、著者の懸念は全く違うところにあることが見えてくる。
それは、安保法制をめぐる議論、とりわけ集団的自衛権をめぐる議論の中から浮かび上がってきた「戦後の国家体制」のゆがみだ。著者がいう、「戦後の国家体制」とは、「憲法九条の平和主義を基盤としながら、日米同盟によって安全保障を維持する日本という国の仕組み」である。憲法の方は、その制定を祝う祝日もあり、常に国民に見えている。しかし、同盟の方は必ずしもその存在が基地周辺のコミュニティに物理的事実として認識されている以外は、可視化されていない。
しかし、著者は、「憲法九条は、……日米安保体制という実際のシステムを視野に入れて考えていくのでなければ、理解できない。安保法制について考えることは、日本の国家体制の仕組みを客観的に見つめ直すための必須作業である」と言い切っている。戦後、日本は一貫して奇妙な知的アクロバットを行ってきた。それは、日米安保体制が日本の存立に不可欠だということを認識しつつも、日本が外の世界と向き合う時の国是は戦争放棄と戦力不保持を謳う憲法九条であり、日米安保体制や自衛隊の存在は九条に対する挑戦だと信じ込んできたことだ。この「奇妙な知的アクロバット」を可視化させたのが、「現実主義者」と呼ばれる日本特有の知識人グループだ。この人たちは、戦後日本特有の「独特の国家体制」の産物だともいえるだろう。
さて、こうした知的アクロバットゆえ、日本における保守と革新の間の線引きは、日本が外で何をするかということよりも、このアクロバットを容認するかしないかということをめぐるものだった。しかし、日米安保は憲法九条体制の不可欠な一部分であり、憲法九条も日米安保体制の不可欠な一部分であるという圧倒的な事実の下、この議論の趨勢が、実際に日本が外の世界でとる行動に大きな影響を与えることはなかった。なんとも不毛な議論である。さらに、この知的アクロバットそれ自体が、いつの間にか無意識の行為に転じてしまい、さらに「矛盾の併存」に慣れてしまったというのが、日本独特の国家体制であった。本書は、この矛盾に集団的自衛権をめぐる議論を糸口に挑んでいく。見えないものを可視化させてからの批判であるがゆえに、本書は国家体制をめぐる「思想史」でなければならなかったというわけだ。
本書は、日米安保と憲法第九条の相互補完性の上に成り立つ「独特の国家体制」に正面から反対することはない。しかし、その体制を存立させているロジックの中で、「最低限」なことが合憲で、「最低限」でないものが違憲だという発想が、結果として日本国憲法が掲げる「国際協調主義」を脇に追いやってきた状況、さらに、安保法制をめぐる議論の中でも、当初は明確に認識されていた「安全保障環境の(多様な)変化」が「中国の脅威」に次第にすり替わっていき、最終的には日米同盟の維持に帰着してしまったことへの不満は明らかである。安保法制をめぐる議論から、いつの間にか「集団安全保障」が消え、純粋国防の議論に回帰していった経緯の描写は、本書前半の冷静なトーンとは大分異なる。
著者の批判の対象は、「独特の国家体制」が強固に作り出してきた硬直的な思考であり、それが同盟の「向こう側」にあるものを語る言葉さえ奪ってしまっている状況そのものにある。日米安保体制は、「国際協調主義」さえも飲み込んでしまい、国際貢献活動も日米同盟体制維持の観点から序列づけられていってしまう。しかし、強調されるべきは、著者の批判の対象が、日米同盟だけではなく、それを支えてきた憲法九条に対しても向けられているという点だ。著者は、巻末近くで、「安保法制によって何が達成されたのか? 今後も憲法九条/日米安保体制を基軸とした既存の日本の国家体制の枠組みが維持される、という合意の維持が、達成されたのである」と告発している。
「二一世紀の日本が、国際社会の一員として発展していくためには、安保法制の議論をこえて、さらに憲法が目指す国際協調主義を進めていくことを目指すべきだ」という著者の意見に異論はない。これこそがあるべき立憲主義の姿だと著者は言い切る。平和構築の現場で、日本の可能性と限界をその目で確かめてきた著者ならではの視点だろう。
「憲法九条/日米安保体制」は必ずしも理想的な仕組みではない、そう著者はいう。しかし、一方で、ありうべき体制の中では、日本にとって最良の仕組みでもあった。特に体制を構成する「日米安保」の側は、冷戦後、地域に対して自らを開いていき、「純粋国防」の仕組みではもはやなくなっている。それは地域の「公共財」としての機能を果たすようになり、「地域安全保障」の中核的な役割を担っている。「憲法九条/日米安保体制」における、「共犯関係」が若干強調されすぎてはいないか。本書に意見があるとしたら、この点くらいである。
今、アメリカでは、場合によっては「憲法九条/日米安保体制」をその根底において揺るがすことになるかもしれない事態が進行中である。仮にドナルド・トランプ氏が一一月の大統領選挙で当選するようなことがあれば、この体制は激しく揺さぶられることになる。しかし、今の日本には、その向こう側をかたるリアルな思考はない。本書は、「トランプ」という劇薬が今日の日本に突きつけている状況に立ち向かうためにも不可欠なものである。もちろんこのこと自体は著者の意図したことではない。にもかかわらず、本書は「向こう側」への手がかりを与えてくれる。本書が「思想史」と名づけられているからといって、書店の思想コーナーに封じ込められるべきではない。本書は、本小論で述べてきた限りにおいてではあるが、極めてアクチュアルな書である。思い切って時事問題のコーナーにでも置いてもらいたい
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