法と政治の境界線、思慮と狡知の境界線
──ジョバンニ・ボッテーロ(石黒盛久訳)『国家理性論』刊行に寄せ
厚見 恵一郎
(あつみ けいいちろう・早稲田大学教授

今私の手元には、三〇年近く前に出版された一冊の政治思想史の教科書がある。タイトルは『現代に語りかける政治思想史』。政治思想史の研究者にとって、みずからが従事している過去の思想の「現代的意義」を語れないのは恥ずべきことという風潮が、当時なおあったように思う。スキナーやポーコックの方法論の輸入とともにそうした空気は薄れ、歴史を語る政治思想史と歴史を通じて現代を語る政治哲学ないし規範的政治理論との懸隔はより大きなものとなっていった。

国家理性論研究についても事情は同様である。ドイツ歴史主義の背景下で、啓蒙的個人主義の倫理と国益との緊張を「国家理性の理念」史に託したマイネッケの大著には、国家と個人、公的倫理と私的倫理の関係をめぐる鬼気迫るほどの哲学的な苦悩の意識が滲み出ていたし、国家理性論に国家管理の合理的近代知を見いだすフーコーにとっても、現代をなお規定する巨大な規律知の探究が近代社会思想研究の焦燥の課題であった。しかしスキナーが、賢慮と利害の優位性を理由に公共社会における正義の相対性を容認する一六世紀人文主義の徳論の文脈で国家理性論を説明し、自然法論や絶対主義の主権論の文脈から区別したとき、国家理性をより限定的な歴史用語として理解する観点が普及した。政治に精通したエリートによって行使されるべき実践的な「統治の秘術」としての国家理性論は、万人の平等な合意契約にもとづくホッブズ流の明文化された主権論の法律主義的な議論とは正反対の位置にある、というわけである。そして本訳書ボッテーロ『国家理性論』(一五八九年)は、マキアヴェッリから重要な要素を受け継ぎつつもマキアヴェッリの「悪しき国家理性論」を道徳的に修正して財政術的要素をも盛り込んだ、カトリック側の「善き国家理性論」として位置づけられる。

研究手法上のこうした分類でいえば、本訳書刊行の第一の意義は政治思想史研究上のものである。国家理性論初期の代表的な古典の初の全訳。歴史的正確さに配慮した訳文。政治史的背景を十分にふまえた行き届いた訳注。マキアヴェッリとの概念比較を軸に国家理性論の思想史上の論点をあぶりだした解説。人名索引も含めて、本訳書によって日本における国家理性論への歴史的理解が一段深まることは間違いない。

マキアヴェッリとタキトゥスの予想以上の普及に驚く献辞をもって始まる本書は、マキアヴェッリとの内容上の対比を意識した仕方で書かれている。ボッテーロは、国家の設立や拡大よりも維持の方策を重視し、騒乱や変革による自由の確保よりも安定や司法の確立による平穏を主張し、詐欺よりも臣民に愛される美徳こそが国家維持にとって有益な名声につながると訴え、新しきものや二者択一よりも古きものや両立ないし中道を重視し、マキアヴェッリが沈黙した国家財政や地政学への目配りを忘れない。しかしこれらの主張が「富国強兵」の一点に収斂していくにつれて、そこにはマキアヴェッリと同様の「新たな領土獲得」への術策が見え隠れしてくる。「国境の安寧を保ち、支配権を拡大し、富と栄光を適切に獲得し、属国を防衛し、友好国に利益をもたらし、宗教や神への崇敬を保全すべく着手された戦争にも増して、人心を保ついかなるものも存在しない」(本訳書一一七─一一八頁)。国家の維持と拡大は、もはや軍事や統治心術のみならず法政策や経済政策にも及ぶ一大事業となる。ボッテーロに続くイタリアでの多くの同タイトル書についての研究や、リプシウス、リバデネイラ、アダム・コンツェン、カルロ・スクリバーニらの反マキアヴェッリ的ないし対抗宗教改革的な国家(理性)論の研究は日本ではまだ少ないが、今後は本訳書の刊行によって見通しがよくなった「(啓蒙以前の)国家理性論の諸相」の研究の進展も期待される。そこには、抵抗するほどに増幅される「マキアヴェッリ的なるもの」の影もまた見いだされるはずである。

しかし、本訳書の思想史研究への貢献が大きいほど、私はそこに現代的なアクチュアリティをも同時に感じてしまう。本訳書の解説では、法なき状態からの法秩序(=国家)の設立を中心課題としたマキアヴェッリの国家理性論と、既成の法秩序から出発してその限界へと歩を進めるボッテーロの国家理性論とが、方向の相違はあれ、ともに法と政治の境界線の自覚によって結ばれていたことが指摘される。法と政治との緊張の意識、法の内と外、法設立の前と後、これらが政治に持ち込む断絶の自覚が、一六世紀国家理性論の特徴であったとすれば、それは法を無視した一方的な国益や政治の優位性の主張とはまったく異なるものであろう。この点で、現代の日本政治で時折見られる「国家理性」の声高な称揚は、国家理性論の歴史的理解からすれば誤解である。さらに訳者は、それにもかかわらずボッテーロがみずからの「思慮」をマキアヴェッリ的「狡知」から区別しえた理由として、両者の「利益」概念の時間的射程の差異に言及し、拡大解釈していけばその差異が生存という眼前の利益と永遠の至福という信仰的利益との差異に行き着くことをも示唆する(本訳書解説三三一─三三二頁)。利益=幸福概念のこうした再定義による、思慮と狡知とのアリストテレス的=トマス的区別の復活こそ、ボッテーロをマキアヴェッリから隔てるものであるといえなくもない。しかし私にとって気になることがある。「狡知は思慮と次のような点において異なる。即ち手段の選択において思慮が利益以上に誠実さに従っているのに対して、狡知はただ利益だけを勘定に入れているのである」(本訳書七〇頁)。訳注によるとこの段落は一五九〇年のローマ版以降削除されているという。これは国家理性が眼前の「国益」へと振れていく時代意識の変化を反映しているのであろうか。

近年の思想史研究においては初期近代がブームである。「共和主義」「自由主義に先立つ自由」「市民的人文主義」「さまざまな啓蒙と野蛮」などが注目されている背景には、主権国家に代表される「自己統治」の確立と拡大が内部における「闘争」と外部に対する「衝突」とを惹起した一五─一七世紀と、内外の政治的境界線が問い直されている現代との、「共振」の意識があるのではなかろうか。そうした共振の震源のひとつとして、ともすれば歴史用語としかみなされなくなっている、さもなければ歴史的文脈を無視した眼前の自国の国益を強調するためだけに使われている「国家理性」の概念が加わるならば、これこそが本訳書の最大の貢献であるように思われる 。


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