解放という革命プロジェクト
──M・ウォルツァー(萩原能久監訳)『解放のパラドックス──世俗革命と宗教的反革命』の刊行によせ
山本 信人
(やまもと のぶと・慶應義塾大学教授

一九一三年七月、オランダ領東インド(現インドネシア)のジャワ島でのことである。その年、現地住民エリートは「オランダの解放百周年記念のための原住民委員会」を設立した。委員会書記であったスワルディ・スルヤニングラットはオランダ語でエッセイを公刊した。「もしわたしがたとえ一時たりともオランダ人になれたなら、それも名目上のオランダ人でなく、すべての外国の支配から解放された『偉大なるオランダ国』の真実の国民になれたなら、それはどれほど楽しいことだろうか」。この一文でかれは、オランダ自身がスペインからの解放を経験していたにもかかわらず、東インドの解放を望む現地住民の気持ちを理解しないオランダ人の態度を揶揄した。これが植民地政庁の激怒を買い、スワルディは東インドを追放され、オランダへ身をよせた。かれは、東インドの民族的な解放を夢みていた。当時はインドネシア民族も国民も存在していなかったが、現地住民が未来の民族の基盤であり、その民族の政治的な自由の獲得がまさに解放への渇望であった。オランダには現地住民の自由を奪う権力があった。そこからの解放が民族解放であった。

スワルディの論理は、六〇年前のアメリカでフレデリック・ダグラスが展開したものと類似していた。元奴隷であったダグラスは、一八五二年七月五日ニューヨーク州ロチェスター市で婦人反奴隷制協会が主催した独立記念式典で演説をした。かれの演説は独立宣言の本質に触れるものであった。そこでかれは「アメリカの奴隷にとって、あなたたちの七月四日とはどのような日だろうか」と厳しい問いを聴衆に発した。アメリカの自由の偏向を指摘した強烈な主張であった。のちにこの演説は黒人コミュニティのあいだで語り継がれることになった。

このダグラス演説の精神をスワルディは自身の文脈で読み替えた。解放をともなう自由、その自由を目指す政治的闘争。スワルディもダグラスもともに、拘束された状況からの解放とそのあとの自由の獲得を目指していた。同時に、語りかける対象の解放や自由に対する想像力に訴えかけている。この点は本書の底流に流れている読者に対する厳しい訴えでもある。

自由と解放は異なる政治的な力とうねりをもっている。スワルディは被支配者である状況からの解放とその先の自由をみていた。しかし解放の先の自由はパラドックスに満ちていた。解放のあとには、解放ゆえの反動が待っていたからである。本書でマイケル・ウォルツァーが目的としたのは、そのパラドックスを「理解」することであり、そのうえで「複雑な説明を」試みている(二頁)。説明が複雑になるのは、「解放は何度も繰り返されるプロセス」(一〇五頁)だからである。その複雑さを承知のうえで、ウォルツァーは解放について「具体的に書」(四頁)いたのである。

ウォルツァーはインド、イスラエル、アルジェリアの事例をとおして、「世俗の左派が、政治的覇権と文化的再生産を握ることがいかに困難であるか」(四頁)を解き明かす。そこで、民族解放に何が起きたのか、世俗の民主的左派に何が起きたのか、という二つの問いを立てる(四頁)。三事例ともに、「世俗革命」により世俗国家の獲得で民族解放をはたすものの、独立から一世代を経た頃になると戦闘的な宗教的ナショナリズム勢力の台頭を経験し、民族よりも宗教にコミットメントする社会が顕在化するパラドックスに直面した事例である。宗教復活の背景には、独立国家における世俗化の進展と政治的腐敗があり、それに対する国民の「憤り」があった(二九〜三〇頁)。外国の支配に対する憤りが民族解放の機運を生みだしたように、今度は国家が解放当初の理想から離れ、国民にとっては他者、裏切り者(三三頁)として顕在化した。ウォルツァーによると、「解放運動家」である世俗の民主的左派は、解放と独立後の過程で西洋発の概念である民主主義と正義の名の下に新しい政治・法秩序の構築を目指したことで、「民衆の慣習と対立」(一一四頁)するようになった。そこに政治権力に対抗する形で、古の宗教や土着の文化を強調する勢力が構成されるのである。こうしたパラドックスが発生するのは、民族解放が社会革命をともなわない政治革命であった事実に起因する。

この社会革命(不在)への視線こそが、民族解放とそのパラドックスを超越したところにある本書の魅力である。社会への視線は社会で従属的な立場にある女性へ向かう。本書の後半部分では、解放運動とは「新たな人間」を創りだすコミットメントであるとするならば、文化的、社会的、宗教的な拘束や従属から女性を解放して「新たな女性」を創ること(一三三頁)、そして社会的な平等を生みだすことであると、ウォルツァーの議論は展開する。

アメリカ人読者を意識した本書の「ポストスクリプト」では、ジェンダー間の平等性を実現するという現在進行中のプロジェクトこそが、二一世紀における解放のプロジェクトである、とウォルツァーは主張する。これこそが、書名を民族解放とせずに解放とした本書の核心であろう。ここからもわかるように、解放を評価するかれの論点が解放後の自由ではなく平等にあることが明確になる。かれは明言していないが、このジェンダー解放のプロジェクトも「反復的なプロセスである」(一二四頁)とするならば、社会革命を目指す未完のプロジェクトとして継続的なコミットメントが求められることになるのであろう。しかしながら、解放にはパラドックスがつきものとするならば、ジェンダー間の平等性を求める革命プロジェクトの先にもパラドックスは存在することになる。だがこの点についてウォルツァーは説明を避けている。むしろそれは、本書を読む読者の想像力に委ねられている課題である 。


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