研究者には公式の指導教員のほかに師と仰ぐひとがいるものだ。少なくともわたしにとっては本書の著者がそれにあたり、駆け出しのころからその仕事を追いつづけ、論文での効果的な引用のしかた、文章の硬軟・緩急の案配、どこでどんな決めゼリフを使うか、等々の「コツ」を盗もうとした。もちろん、いくら文体を模倣しても、それだけで同じ水準の論文が書けるようになるはずはない。それでもわたしは、当時の自分と同じ年頃で、たとえばC・B・マクファーソン『所有的個人主義の政治理論』原書の紹介文にT・S・エリオットの名前を出し(本書17)、ホッブズとヘーゲルを論じる文章の結論をトーマス・マン『魔の山』の一節に託した(本書2)著者のセンスに心服するあまり、ときに剽窃・盗作まがいのことまでしてきたのである。いま思えば、わたしはそれらを「〈読者〉にとってそれを読むことが道徳的師表としての〈教祖〉との同一化への強制であるような、本質的に不自由な〈教典〉としてではなく、それを読むこと自体が「自由」の経験であるような、開かれた〈作品〉として」(本書四八四頁)読んでいたのだった。この「自由」をその後わたしが活かしきれたかどうかは別問題として。
そのような作品群が一著となって読み返すことができるようになったのは、嬉しい反面、不肖の弟子が師の仕事にいかに多くを負いつつ、いかに至らないかが白日のもとに曝され、忸怩たる思いも禁じ得ない。結局習慣として身につかなかったことはたくさんある。現代の歴史家たちのそれぞれに個性が反映された歴史叙述を適宜引照すること、内外の、とくに日本の研究業績に万遍なく目配りすること、文献の使い回しをしないこと。圧倒的な読書量の差がその一因だとわかったのは、かなり後になって著者の桁外れに膨大な蔵書の噂を耳にしたときである。実際それは──同じ本が二冊、ときに三冊見つかることをのぞけば──ボルヘスの「バベルの図書館」を彷彿とさせるという! 著者に私淑した者は例外なくこの尋常でない本道楽も真似て書物を買い漁った。だが『フィロビブロン──書物への愛』の著者がヒエロニムスを引用していうごとく、「金銭と書物を同時に愛することはできない」。こうしてご家族にとっては浪費と思われるであろう書物の「バベルの塔」が残される。
でもわたしがほんとうに真似たかったのは、そして逆立ちしても真似できなかったのは、狙った獲物を一発でしとめる著者の優れたハンターの腕だった。オークショットについて語られるべきことは、「LSEの精神史」(本書4〜6)ですでに言い尽くされているといってよい。オークショットという思想家「個人」を論じて戦後英国を論じる雄篇「ナチズム・戦時動員体制・企業国家」(本書9)は、世界に向けて発信される価値のある日本で唯一のオークショット研究であり、新資料に目移りしがちで質より量といわんばかりに活況を呈している昨今の欧米オークショット・インダストリーを心胆寒からしめるだろう。そのオークショットに加えて、レオ・シュトラウス、イグナティエフ、クリックなど、著者が手がけた翻訳書に付された達意の「訳者あとがき」が本書に再録されている。とくにイグナティエフ作品の日本での成功はそれに負うところ大である(本書26・35・38)。頑に「リベラル」たらんとするがゆえにくぐり抜けねばならないすべての試練と矛盾とを一身に体現するかのようなイグナティエフの思想と行動に、同じ世代に属する著者は共感を隠さず、イグナティエフ自身もまたそのような訳者に全幅の信頼を寄せた。翻訳は不可能事なりの伝にならえば、哲学(あるいは思想的実践)の語法で語られたことがらを歴史の語法に「翻訳」する思想史とは、まさしく一個の不可能事なのかもしれない。だが思想史研究の少なくとも作品としての価値は、ひとえにこの「翻訳」の出来・不出来にかかっている。『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』の日本語訳をタイトルにした「「見知らぬ人々」の必要」(本書16)は、その意味でも「翻訳」の真骨頂であり、自著の歴史的意義をここまでクリアに総括されればイグナティエフも本望であるにちがいない。
「マキァヴェリおよびホッブズによって礎石を据えられた近代的政治社会論の根本モチーフは、自己と他者との関係をいかなる《媒介》によって調停するか、という一事に尽きる」(本書四八頁)。若き日にそう喝破した著者の眼鏡にかなった思想家たちは、《媒介》がもはやいかなる意味においても強制とは感じられないほどに自他の区別が消失した世界をユートピアとしてしりぞける点で共通する。これはすぐれてエピクロス主義的な思想であるといえる。ユートピアが到来するそのときまで、われら死すべき人間は、自然の脅威と他者の暴力から、もしかすると自己の過剰な欲望からさえ身を護る「平和と安全」の保証として法を必要とする。その無期限延長をホッブズが宣告して近代英国政治思想ははじまったのだ。その特徴は、多様性に向かって開かれていること、その擁護にあたって断固たること、それでいて(と真正エピクロス主義者の著者はつけ加える)シヴィライズされており、まっとうで品位あることにある。
わたしにとっては、本書にまとめられた著者の思考の歩みが「リベラル」であるとはどういうことかを定義した。「リベラル」の最古義はliberality(気前のよさ、物惜しみしないこと)であるという。著者が本書のなかで惜しげもなく投げかける数々の問いを考えるだけで、将来幾人もの政治思想研究者が喰っていけることだろう。だがわたしはどこまでいっても不肖の弟子なのである。ほかの誰でもない師の作品のなかでその答えを読む無上の知的快楽に浸りたいと思うのだから
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