複数の“声”を自分の中にキープすることは容易ではない。
クラスでいじめを目撃した中学生は「止めた方がいいのか」「先生に言うべきか」と「藪蛇になるかも」「私もやられるかも」という二つの“声”に悩まされる。道端で寝ているホームレスを初めて目撃した人は「大丈夫なのか」「声をかけようか」と「かえって失礼かな」「ついてこられたら困る」という二つの“声”に悩まされる。
どちらが正しいかというだけでなく、いずれかを選択した場合の帰結についても、さまざまなリスクを想定するだろう。堂々巡りになるかもしれない。はっきりしたアクションをとれない状態を誰かから責められるかもしれない。この状態をキープして考え続けるには、相当の知的・精神的体力がいる。周囲との力関係を測定し、結果を予想しながら、自分の言動をその都度選択していくという点では、広義の政治性が問われる場面だと言ってもいい。
その状態は、端的にしんどい。なので多くの場合、この状態から脱するために、それを相手の「問題」にして自分から切り離す。いわく「本当にイヤだったら、自分でなんとかするだろう」「その人の問題で、自分は関係ない」と。これを私は自己責任論と呼んできた。
分かつとともにつなげる「線」、抑圧するとともに庇護する「権力」、こうした両義性をそれとして思考することも、テーマは違えど基本的に同じことだ、と私は考えている。そこでも、相当の知的、そしてそれ以上に精神的体力、つまりは広義の政治性がいる。
その意味で、国境や権力の両義性を思考しようとするこの本は、それらの概念をどう理解すべきかという政治学的考察の本であると同時に、ときに相対立する複数の“声”をキープするという態度のもつ政治性について考えようとした本だと思う。
そして、僭越ながら勝手な推測をさせてもらうと、この本をこのような形でまとめた時点での杉田さんの重点はきっと後者にあったんだろう、と私は思っている。だが、そのテーマは前面には出されていない。痕跡はたくさんある。たとえば、杉田さん自身によるインタビューという自己内対話形式の章が複数ある。
そこでは、どちらかと言うと、より自由主義的で、より「左派的」なインタビュアー・杉田が攻撃的で、両義性を主張する地の文・杉田が防戦しているような印象を受ける。失礼を承知で言えば「言い訳がましく聞こえちゃうんだろうな。そう受け取られるんだろうな」と杉田さん自身が感じながら書いている箇所もあるようにさえ思う。そこらへんに、前面で展開されなかった理由があるのか。「あとがき」にはこうある。
しかし本書では、それらが根底から見つめ直され、事柄に伴う両義性が強調されたあげく、読者は宙吊りのまま放置される。/このような本書の立場には、批判も“あろう”。しかし、どうにも整理がつかないような事態が進行する一方で、政治的な決断主義への希求が強まるいま、立ち止まって考え続けることだけが、唯一の可能性なのかも“しれない”のである。(“ ”は湯浅)
「批判はある“かもしれない”が、唯一の可能性“だろう”」とは書いていなかった。そこが気になったのは、私がそう書いてほしかったからだ。
だから私は、以下の記述に注目した。杉田さんは、最終章で、丸山眞男に触れながらこう書いている。
丸山は、内外の境界にある知識人が「内側の住人の実感から遊離」することなく、しかも「内側を通じて内側を超える展望を示す」ことに可能性を見出すが、その記述は抽象的なものにとどまっている。そもそも、それは容易なことではない。たとえば、安倍政権の「内側」から暴力的な攻撃がなされている以上、本来、境界にいたはずの知識人も最も「外側」の部分と連帯せざるを得ないという考えをもちがちになる。しかし、完全にそうなってしまえば、かえって「内側」を利することになる。そこで、知識人は両側に目配りしながら、何とかつないで行く役割を果たさなければならない。両側からの疑惑の目を堪え忍びながら。(二四七頁)
境界線が右に動けば、今まで右側にいた者も左側にいることになる。境界線上にいつづけようとすれば、左から見れば右側に寄っていっていることになる。右からは信頼されず、左からの信頼は失う。厳しい立場だ。丸山は「内側を通じて内側を超える展望を」と言うが、そんなことがどうすれば可能なのか、具体的には示していない。だが、それでもつないでいく役割を果たさなければならない、と杉田さんは決意を述べる。
蛇足ながら付け加えると、丸山は当該文章(「現代における政治と人間」)で「内側のイメージの自己累積による固定化をたえず積極的につきくずすこと」が「内側を超える展望をめざす」ことにつながると示唆している。杉田さんのこの章が発表された二〇一四年七月から、この本が出版された今年九月までの一年あまりは、「内」と「外」がそれぞれの「内側のイメージの自己累積による固定化」を進めていった時間だった。丸山は、類似の状況が生まれていた一九六一年という時期に、知識人の「光栄ある現代的課題」は上述した態度の中に「しか存在しない」と言い切っている。そこに、私は励まされる。
私の考えでは、狭義の政治や政治学に関わっている者だけでなく、いじめを目撃した中学生も、通勤途中にホームレスを見かけたサラリーマンも、両義性のポリティークを生きている。境界線はあんがい太く、そこの住人はあんがい多い。この本には、両義性に踏みとどまることに疲れて、自己責任論(より集団的なレベルでは、この本が「ポピュリズム」と定義するもの)に流れそうになりながら、同時にそうした自分に傷つきもする真摯な人たちに届けるべき重要な警句と励ましが盛り込まれている。
だから私は、杉田さんにはやっぱり言ってほしい。「批判もあるかもしれないが、唯一の可能性だろう」と。
(ゆあさ まこと・社会活動家/法政大学教授)