ハインリヒ・マイアー著、中道寿一・清水満訳『政治神学か政治哲学か──カール・シュミットの通奏低音』(風行社 二〇一五年)が邦訳された。この小文で内容紹介は難しいので、本書刊行の意義について若干感想を述べたい。
「政治的なもの」の標識は「敵か味方かの決断」にあるという『政治的なものの概念』における叙述とともに、シュミットの政治学的著作の中で最も有名なのは「現代国家理論の重要概念は、すべて世俗化された神学概念である」という『政治神学』の理解であろう。そして神学にとっての奇跡と類似の意味をもつのが法学にとっての「例外状況」である、というシュミットの叙述を読む者は思いがけない切り口に魅了される。
しかしこうした理解が見事ではあるが単に気の利いた説明にとどまるのか、それ以上の思想的意味をもつのかは、直ちに判別できることではない。「類似の意味」と言うが、「奇跡」は人間の想像力を超えた理解しがたい事態であるのに対し、「例外状況」は例外的であるとは言え、十分人間的に理解できる事態である。バイブルにみられるイエスが山を動かしたり嵐を鎮めたりしたという記述を「例外状況」と重ね合わせていいのだろうかという疑問は当然成り立つ。この疑問を解くうえで「世俗化」の概念をどう理解するかが重要な意味をもつのであろうか。
この辺の説明抜きに「政治神学」の意味を「現代国家理論の重要概念は、すべて世俗化された神学概念である」をもって説明されたことにし、シュミットの説明の鋭さに魅了されるというだけのシュミット理解は、本書の著者マイアーの見方によれば、「限定的な『政治神学』解釈」であり、確かにシュミットの叙述を正確にくり返してはいるかもしれないが、シュミット思想と決して「現実的対決」をすることにはならない。しかし「シュミット解釈者の間で支配的であった」のはそのような「限定的解釈」であった。マイアーによれば一九八八年まではそのような研究状況にあったのである。
ところで一九八八年とはマイアーの最初のシュミット論である『シュミットとシュトラウス――政治神学と政治哲学との対話』の刊行された年でもあった。「政治神学」には単に気の利いた説明という以上の、しかも「政治哲学」とは区別される独自の意味があった。マイアーはこの観点に立つ、自らを含めた政治神学理解を「求めるところの多い意味での政治神学」と呼んでおり、前著がシュトラウスとの関連に焦点をあて、シュミットの政治思想の根幹を政治神学に求めていたのに対し、本書は『グロッサリウム』なども含めたシュミットの全体的な思想を視野に入れ、シュミットの「政治神学」との関連で論じられる思想家は主要な人物についてだけでも、シュトラウスをはじめとし、ホッブズ、ドノソ・コルテスやバクーニン、ヘーゲル、ブルーメンベルク、ペテルゾン、エルンスト・ユンガー、レーヴィットなどに広げられている。すでに前著において示されていた「シュミットの思想の核となるものやその文脈が政治神学として理解されなければ」、言い換えれば、内在性の世界を超えたところに視野が及ばなければ、「シュミットを十分理解することはできないという命題」は、本書によって一段と広い文脈で論じられることになる。主要な登場人物のうち、ホッブズやボダンはともかく、ドノソ・コルテスやド・メーストルにせよ、あるいは『政治神学再論』におけるバリオンやペテルゾンにせよ、まだ日本ではほとんど知られていない現状において、シュミットの「政治神学」のみならず、「政治神学」一般を論ずるに際し、今後本書は欠かすことのできないものになろう。
しかしシュミット「政治神学」の歯切れのいい解釈を求め、本書から「政治神学」の何たるかをめぐるわかり易い議論を期待する読者に、本書は向いていないかもしれない。政治と神学の交錯乃至関係をめぐって幅広いヨーロッパ思想史のなかに分け入っているだけでなく、日本の思想風土においては必ずしも知られていない原罪や啓示信仰などキリスト教の思想的検討までが行われており、本書を理解するに際してシュミットそのひとだけでなくマイアーの思想とも対話し対決するという、難しい作業が要求されているからである。
マイアーは才気あふれるシュミットの政治や法学などに関する叙述の深層に分け入り、そこに宗教的な「通奏低音」を聞き取る。政治の根底にも神学的基礎を読み取るシュミットの政治神学の方法は、小品「ローマ・カソリック主義と宗教形態」にも明らかなように、シュミットのカソリック主義に立脚しているわけだが、彼は「政治神学」の現実的意味を、政治思想が啓示信仰に基礎をおくことに求めており、そうした信仰への服従こそが政治神学の基礎であるという観点から、カソリック主義とヨーロッパ公法上の国家を独自に関連づけようとしている、とマイアーはとらえ、第一章から順に、道徳、政治、啓示、歴史の問題群に即しながら政治神学の独自性を解明している。おそらくこの政治神学的側面からシュミット独自の「真面目さ」「真剣さ」も生まれてくるのであろうし、伝統的なカソリック主義とも区別される、彼の決断主義も生まれてくるのであろう。
カール・シュミットの政治思想の理解のみならず、ヨーロッパ精神史の理解において「政治神学」概念のもつ射程の拡がりは本書によって解き明かされているが、さらに数年前邦訳されたヤーコプ・タウベス『パウロの政治神学』も併せ読むと有益であろう。タウベスは表題のパウロの政治神学がシュミットにおいてのみならず、カール・バルトやベンヤミンなどにおいてどのように受け止められているかを論じ、第一次大戦前後にシュミットやバルト、ベンヤミンにおいて「一体何が生じたのか」に着目しており、マイアーの本書とも重なる論点に着目している。
日本においても近年深井智朗『政治神学再考』や古賀敬太『カール・シュミットとカトリシズム』などにより、ようやく「政治神学」に焦点をあてた研究が始められているが、さらにタウベスやマイアーの訳書によって、日本におけるシュミットの「政治神学」研究はようやくその出発点に立ったと言えるかもしれない 。