一九八〇年代から日本が不平等な社会に転じつつあることは、さまざまな指標からも否定できない事実である。不平等は、貧困の問題をともなうが、それとは異なる固有の問題領域を形作っている。経済的・社会的不平等は、政治的平等に悪影響を及ぼすだけではなく、人々の自尊の社会的基盤を損ない、ウィルキンソンらの研究が示すように人々の健康をも蝕む。
本書は、多くの社会がいま直面する不平等の問題にさまざまな観点から光を当て、市民が互いの間に平等な関係を再構築し、維持していくための条件を探るものである。その特徴は、方法論を含む理論的なスタンスの明確さにある。
まず、本書は、現状を批判的に評価し、まだ認識されていない諸問題を発見する「理想理論」に一定の役割を認めながらも、基本的には、「具体的な事例をとおしての理論化」を重視する「非理想理論」の立場をとっている。本書が取り上げる具体的な事例は、「ホームレス」、過労死、アイヌ、在日コリアン、ドイツにおけるトルコ系移民など多岐に渡っており、しかもそうした事例への言及は経験的研究への一貫した関心によって裏打ちされている。経験的観点と規範的観点とを結び合わせようとするアプローチは、E・アンダーソンやJ・ウルフらにも見られるが、本書もそれらと軌を一にするものである。
第二に、平等主義の諸理論のうちで著者が擁護するのは、いわゆる「関係論的な平等主義」の立場であり、この立場から、もう一つの有力な理論である「運の平等主義」が批判的に検討される。この二つの立場の論争はなおも継続中であるが、本書は、不平等を惹き起こしている「非分配的な」諸要因に一貫して注目し、個々人への財の分配による平等化の構想に傾いてきたこれまでの平等論の難点を明らかにし、それを克服しうるアプローチを探求している。
第三に、著者の採用する「関係論的アプローチ」は、「受動的犠牲者を生む環境決定論」と「環境的影響を無視する自己責任論」をともに避け、マクロな構造と個々の相互行為の間に位置する社会諸関係が、人々がそこに占める地位にどのような影響を及ぼすかに注目する。そのメリットは、正当化しえない不平等を社会が是正しようとする際に、公的な制度からインフォーマルな相互行為にいたる「多次元的」な政策レインジを示すことができる点にある。
第四に、著者は、「価値多元主義」の立場を自覚的にとっており、平等は社会が擁護すべき複数の諸価値の一つとして扱われている。その際、著者は、平等に「同輩者中の首席」としての一応の優位を与えるが、平等という政治的価値そのものも一義的な意味には還元されえず、それゆえ、その内在的な緊張をとらえる必要が強調される。
本書は、序論を除き全七章から構成されている。興味を惹く各章の論点を挙げれば次のようになる。第一章「プリズムのなかの平等」では、財の分配領域の分離をはかるM・ウォルツァーの複合的平等論が、諸領域間に相乗的な作用を見いだす「接合の論理」を欠くという観点から批判的に検討される。第二章「主体的行為と構造のあいだ」は、選択と運、人格と境遇の間にトレードオフを課す運の平等主義の議論を取り上げ、不平等に影響を及ぼす境遇を諸個人の属性に帰すこの議論は、集団間の「カテゴリー的な不平等」をとらえそこなうなど、スティグマ化を伴う優位‐劣位のヒエラルキーに十分には対応できないことを示す。
平等と公共性という二つの理念の相互作用について考察する第三章「平等と公共性」では、平等を脱‐多元化するような構想──分配的平等への還元やナショナルな同質性への依拠──は、(認知的な)多様性を保持すべき公共性を縮減してしまうという論点が示される。第四章「市民社会と平等/不平等の力学」は、市民社会に内在する不平等のメカニズムを取り上げ、市民社会を国家や市場から切り離さない視点が、そうした不平等を惹き起こす複合的な諸要因を的確にとらえるうえで重要であると論じる。
第五章「差異とシティズンシップ」では、文化的差異に対して抑圧的ではない社会統合を展望するためには、シティズンシップをナショナリティから切り離し、国籍保有者と非保有者との間の中間的地位を積極的に認める構想が必要であることが示される。同じく差異の扱いを主題とする第六章「再分配と承認」は、ドイツにおけるトルコ系移民を取り上げ、差異の「承認」が排除や不平等を肯定する論理に転化しつつある今日の状況に注意を喚起し、マイノリティの地位やその生の展望を規定している要因を文化的差異に還元しない見方が求められると論じる。
最後に、第七章「品位、平等、平和」では、他者から屈辱を受けないという意味での「品位」(decency)が、平等と平和を媒介する概念として提示される。ここでも、本書が重視するのは、アイデンティティ(自尊)の毀損それ自体というよりもむしろ、そうした屈辱を惹き起こす社会的諸関係であり、それが、国家を構成するメンバー(市民)には閉じられないことが指摘される。
本書の議論は入念に構成されており、「平等の政治理論」をめぐる今後の議論が必ず参照すべきスタンダードとなることは間違いない。いま部分的に紹介した論点からも推察されるように、本書は、個別の論点に特化する議論とは違い、不平等/平等をめぐる諸問題に十分に広範な網をかけており、読者は、この問題を考察するに相応しいパースペクティブを得ることができる。ややないものねだりにはなるが、著者とともにさらに検討したい二、三のポイントを挙げておこう。
その一つは、正当化しえない不平等とは何なのか、という根本的な問いに関わる。どのような社会もあらゆる不平等を廃棄することはできず、むしろ、「あらゆる人々にとって有利になる」ことが合理的に予期できる場合には、正当化される不平等もある。運の平等主義は、偶然性(brute luck)が導く不平等を不正義とみなすのに対して、関係論的平等主義は、不平等が、「市民としての対等な地位」を損ない、ある市民を劣位の、不利な立場におくときにそれを不正義と考える。本書は明らかに後者に沿った答えを示唆しているが、平等の政治理論はこの点に関してより明示的な答えとその理由を示す必要があるだろう。
第二の点は、社会の主要な制度は、市民が互いの間に対等な関係を築き、それを維持していくために何を保障すべきなのかという──いわゆる「平等の尺度」をめぐる──問いに関わる。それが厚生や資源(財)ではないことは本書から読み取れるが、ケイパビリティーや機能という語が用いられず、「機会の平等」が「スターティング・ゲイトの平等」の意味合いに限定されていることもあって、この問いに対する答えはまだ明確ではないように思われる。
第三は、平等とデモクラシーの関係に関わる論点である。第三章の議論をはじめ本書全体が間接的には両者の関係に触れているが、互いを政治的に「平等な者」として尊重するという規範の実現を現に阻害している諸要因に対して注意深い著者が、民主的な意思形成の制度/相互行為をどのような方向にむけて再編しようとしているのかをさらに知りたいと思う
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