互いに「よく生きる」ための条件を問う
──田中拓道『よい社会の探求──労働・自己・相互性
齋藤 純一
(さいとう じゅんいち・早稲田大学教授

本書の主題は、タイトル通り、「よい社会」とはいかなる社会かについての思想的探求であり、「正義にかなった社会」への問いは、本書の直接の主題とはされていない。

実際、本書では、「正義にかなった」あるいは「公正な」という言葉の使用は避けられているし、不平等あるいはそれに類する言葉もほとんど用いられていない。「よい生」をめぐる諸構想の多元性を与件とし、正義にかなった社会の構想を探求するメインストリームの議論に対して著者が意識的に距離を取ろうとしていることは明らかであるように思われる。

本書が描くのは、「よく生きる」(eu zen)ことを志向する存在としての人間(自己)であり、しかも「よく生きる」ことは──少なくとも部分的には──「卓越」(arete)の観念に結びつけられている。こう言ってよければ、著者の関心は、善の諸構想の「多元性の事実」にではなく、それらに通底しているはずの「よく生きる」ことへの本来的な志向に光を当てることにある。「よい社会」とは、人々が互いの間で「よく生きる」ことを可能とし、それを促す制度や慣行をそなえる社会である。

著者は、「よい社会」を構成する主要な活動様式として、相互行為(interaction)というよりも労働(labour)に注目する。働くことは、歴史を通じて人々の生において圧倒的な比重を占めてきたからでもあり、現代社会において「労働を通じて専門的な技量を示し、卓越を競い合うこと」は、個人の生を豊かにしていく条件ともなっているからである。この場合にも、著者は、規範の正当化をめぐる言語コミュニケーションを理論構成の主軸に据える議論から距離を取ろうとしているのはたしかである。

もっとも、著者の議論においても、人々の社会的協働は「政治、文化、コミュニティ活動などできるだけ多様な実践」によって構成されるべきものである。労働は「よく生きる」ことの主要な活動様式の一つとして位置づけられており、労働概念に過剰な多義性を与えることによって活動様式の多元性を縮減することが本書の狙いではない。

「よい社会」を存立させるために人々の関係のあり方を規制する規範を、著者は、「相互性」という言葉で表現する。本書において、この言葉は、さまざまな文脈で用いられている。それは、相互扶助、友愛、人格間の相互承認、労働の成果に対する相互の価値評価、そして「市場メカニズムをコントロールする理念」などを指している。用法は多様ではあるが、人々の関係──間人格的関係であれ制度を介する関係であれ──が「相互性」の規範によって規制されるとき、互いの関係において「よく生きる」ための生活条件を得ることができる、というのが著者の描く社会の基本ヴィジョンである。

本書は、「労働」と「相互性」を二つのキーワードとして、思想家の議論を時系列に沿って取り上げ、順次それらに対する批判的な評価を加えていく。つまり、各思想家が「労働」にどのような意義と社会的位置づけを与えたか、人々の社会的協働に対してどのような「相互性」を求めたか、その場合の「相互性」は各人に「よく生きる」ための生活条件を保障しうるものであったかどうかという問いに照らした評価が示されていく。

取り上げられる思想家は、アリストテレスにはじまり、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、マンデヴィル、ヒューム、スミス、ルソー、ヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクス、ヴェーバー、デュルケーム、ポラニー、ケインズ、グラムシ、ギデンズ、ロールズ、セン、ハバーマスそしてポール・リクールに及ぶ(リクールに対しては否定的な評価は示されておらず、後で触れるように本書において例外的な扱いになっている)。

思想史に関する著者の知識は該博であり、個々の思想家について有益な情報や著者ならではの興味深い解釈が示されているが、ここでそれらを一つひとつ挙げる必要はないだろう。より重要なのは、著者が本書全体を通じて「労働」と「相互行為」との関係をどのようにとらえているかであり、以下、それについていくつかの論点を挙げてみたい。

第一は、近現代の分業システムのもとで専門化した労働は、各人に「よく生きる」ことをどのように可能にするのかという問いに関わる。大多数の人々にとって労働の場は、「賢慮」というよりも「技能」の発揮を求められる環境であり、そこでの「卓越」は等質競争における優位の獲得という意味に還元されがちである。人格の相互承認は、社会を構成するこの次元(市場)においては、労働とその成果(業績)に対する承認によって否応なく媒介されざるをえない。市場において現に妥当している承認基準が多くの人々の尊厳(自尊)を損なっているとすれば、各人にとって労働──労働以外の活動様式ではなく──がなおも「よく生きる」ことを可能にする活動様式であるためには、労働とその成果に対する価値評価を根本から組み換えていく必要がある。翻って、市場における相互承認のあり方を見直していくためには、労働ではなく相互行為、つまり、価値評価の基準をどのように再編すべきかを問うコミュニケーションが重要になる。

第二に、著者によれば、労働とその成果を媒介する市場は自らを再生産しうるシステムではなく、相互性の規範によって制御されなければ自己破綻せざるをえない。著者のいう狭義の──資本制市場から区別される──「社会」は、「市場メカニズムをコントロールする理念」を含む相互性の規範を共有する人々から成る。著者の立論からしても、市場を制御すべき相互性の理念は、「社会」における暗黙の規範的了解にとどまるだけではなく、(強制力をもつ)諸制度のうちに明示化される必要がある。とすれば、相互性の規範をどのように解釈し、それを正統な制度にいかに具体化していくかについての「社会」におけるコミュニケーションが重要になる。

実際、労働や市場が「シンボルの体系」──そしてそれを解釈する相互行為──のもとにあることは、著者自身も肯定している。「資本主義に対抗する運動もまた、最終的に個々人による「シンボル」の反省と問い直しという解釈的な営みから発生する」という言葉も見られる。

著者は、リクールの議論に依拠しながら、「自己」を「解釈的存在」としてとらえる。解釈的存在としての自己は、つねに、自らのさまざまな活動を「賢慮」を通じて反省し、「よく生きる」という目的に沿ってそれらを位置づけ直す(再)解釈に携わっている。というよりも、自らのさまざまな活動を「物語的統一」に向けて編成していく営為それ自体が「よく生きる」ことである。だが、その物語は、個人のうちに自己完結しうるものではなく、つねに他者との関係にあって埋められるべき「欠落」を抱えている。著者によれば、人々は、互いに欠落を抱えた物語を生きる解釈的存在であるからこそ、相互に承認し合い、配慮しあい、物語の幾分かを共有する必要がある。

著者にとって「よい社会」とは、この意味で「よく生きる」ことを人々に可能にするために、解釈の資源──育成環境、言語、文化、教育など──をすべての成員に保障する社会、しかも、その保障が解釈的存在としての自己たちが互いの間で「平等な尊厳」を得ることのできる社会である。

したがって、著者の議論においても、労働や互いの協働のあり方を規定し、それを通じて人々の生き方を方向づけている「シンボルの体系」について相互の解釈を交換するコミュニケーションには、労働に劣らない重要な位置づけが実質的に与えられている。そして、「よい社会」が、「平等な尊厳」の享有を互いに可能にする関係の構築と維持を求めるとすれば、相互性の理念をめぐる解釈の交換は否応なくその核心に正義への問いを含まざるをえないだろう。

著者は、本書の議論を通じて、卓越主義の含意をもつ目的論的な正義の構想を示しているように思える。ただし、個々の思想家についての記述と評価が本書の大半を占めているためもあって、著者自身の議論の構造において「善」と「正」がどのような関係にあるか、また、「相互性」と「正義」は規範としてどのような位置関係にあるのかについては明示的には述べられておらず、この点をもっと知りたいと思う。

本書は、「よく生きる」ことを可能とするのはどのような社会かという古来の問いを、労働という活動様式を人々の社会的協働にどのように位置づけるのかというやはり古来の問いとともに提起することを通じて、正義の諸構想を問うことに傾斜しがちな政治理論に新たな探求を促している 。


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