とんでもない事件が起こったものである。パリ市民だけでなくヨーロッパ中が、いや世界中が悪夢を見るような思いの新年であった。テロリストが殺害され、とりあえず事件が片付いた後、二〇一五年一月一一日、フランスでは反テロと表現の自由を叫ぶ二〇〇万人を超えるデモ行進が行われた。以来、反イスラームと表現の自由とが交錯した議論が続いている。
思えば二〇一一年一月、チュニジアから始まったアラブ・イスラーム諸国の政変は、民主化や自由を求める市民たちの力により独裁政権を倒し、「アラブの春」と呼ばれた。自由と権利と尊厳が主張された。民主主義の思想と価値を、西欧とイスラーム世界が初めて共有したのである。それから四年後、イスラームは悲惨なテロ事件を引き起こしたのである。世界中の人々の感動を呼ぶ政変が、今度は流血の惨劇事件に変わった。両者はどのような関係にあるのだろうか。
本書はこのようなことを考えるのに非常に示唆に富む著作である。著者はチュニジア史研究がいかに地味か、注目されないか、よく知っていて、そのため逆に信頼のおける堅実な歴史研究を進めてきた。一九五六年の独立以来、少数の西欧の研究者と着実に増加するチュニジア人の仲間がその人生を同国の研究に捧げ、すぐれた著作を発表しても学会以外ではあまり関心を引かなかった。「マグレブの近隣諸国(アルジェリアやリビア)は、しばしば国際的な観察者や分析者の間に懸念を抱かせるが、チュニジアは本質的に穏健な、通常は西洋志向の政治的、経済的同盟関係は、懸念の発生要素を欠く(良かれ悪しかれ)、語るに足りない退屈さを印象付けていた。専門家以外では、古代地中海文明の土地、あるいは施設の整った観光地として知られているにすぎない国であった。」(第二版への序文)。要するにチュニジアはあまり関心を引かないし、注目も集めない国だったのである。
ところが、二〇一一年、すべてが変わった。一晩にしてチュニジアは表舞台に躍り出、世界中の注目を浴びるようになったのである。本書の初版は二〇〇四年の出版であるが(おそらくあまり注目されなかった本であったろう)、革命を受けて突然脚光を浴び、急きょ、革命と革命後の状況を論じた第八章を加え、第二版が二〇一四年に出版された。しかし、やがて革命がエジプトやリビアに波及し、シリアやイラクが底なしの混乱状況に陥ると、劇的でなく比較的穏やかな改革が進むチュニジアは再び舞台中央から追い出されることになる。
さて本書をどう読むか、である。「アラブの春」は退屈な国の乾坤一擲ではなかったか。そこに焦点を絞って読んだら本書の意味は変わらないか。著者パーキンズが力を入れているのは、フランス植民地期における民族運動・独立運動の深い考察であり、それは、独立後から現代にいたるまでのチュニジアの政治と社会を理解する基本的な枠組みを提示してくれる。一九二〇年代から三〇年代に活発化する民族運動は、やがてネオ・ドゥストゥール党と、一九四六年にファルハト・ハシェドによって設立された労働組合UGTT(チュニジア労働一般組合)とによって担われたが、ネオ・ドゥストゥール党内には、ブルギバの世俗主義的西欧化の路線とベン・ユスフのアラブ・イスラーム的路線との対立が潜在的にくすぶっていた。しかもベン・ユスフとブルギバは、前者が南部のジェルバ島出身、後者が新興ブルジョワジーの拠点となるサヘル地域のモナスティール出身、という今日まで存続する南北の格差をも代表していた。二〇一一年の制憲議会選挙でも、二〇一四年の国民議会選挙と大統領選挙でも、南部ではイスラーム政党(アル・ナハダ党)が勝利した。南部出身のベン・ユスフは、独立直前の一九五六年、ブルギバ派に敗れ、亡命、六一年ブルギバの送った刺客により暗殺されたが、選挙の結果を、南部におけるアラブ・イスラームの伝統、暗殺に対する復讐心の表れとみる人もいる。
チュニジア程、イメージと現実のギャップが大きい国はない。西欧的、近代的、リベラルな表の顔と、アラブ・イスラーム的、伝統的価値を追求し、(十三万人の治安警察が目を光らす)抑圧的な裏の顔が共存している。これらは本書の重要なテーマであり、独立後のブルギバからベン・アリへと発展していく様子が具体的に記述されている。世俗化と西欧化は特異であるばかりか、極端である。「ベールは不愉快なぼろ切れ」と学校や公的な場でのベール着用を禁止したり、ラマダーンを否定しようとしたりしたが、女性の選挙権や一夫一婦制の施行、女性の教育の奨励などに努めた結果、アラブ・イスラーム世界でもっとも女性の社会進出の高い国になった。「アル・ナハダ党の政権にもっとも声高に発言し強硬だったのは女性たちで、主として中流および上流階級の出身で、ブルギバ時代の社会的、法的改革の庇護のもとで生活を送った人たちであった。」(第八章)。いったん自由を得たムスリム女性たちは自由を手放そうとはしないのである。
「アラブの春」は抑圧の壁を突き破り、さらに向こうへと進んでいった。ベン・アリ体制を倒したアラブ政変の主体は、イスラームからは距離をおく、自由や尊厳や平等などの価値を主張する市民であった。チュニジアは、イスラーム世界で初めて、宗教が政治から切り離され自由になったのである。しかし、宗教の政治からの解放は、イスラームの役割を極端に限定する世俗派から、逆に原理主義的なイスラーム派まで多様な集団を登場させた。そのため二〇一一年以降、チュニジアでは、イスラーム過激派によるテロ事件が何度も起こった。しかし初めて自由を体験したイスラームは、いかにして多様性と差異を調和すべきか、迷いの中にあるように見える。そのような意味で二〇一五年、パリで起こった「シャルリー」テロ事件は、「アラブの春」の「落とし子」ともいえる。「イスラム国」も同様である。イスラームにかかわる今日的問題を理解するための、さまざまなヒントが隠された本書の一読を、ぜひお勧めしたい
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