学術論文ではなくエッセイを書いているにすぎない。
かつて政治思想研究には、このような揶揄が向けられた。こうした理解が消えたわけではない。偉大とされる思想家が遺したテクストに依りかかって、規範的な主張を現代に向けて語っているにすぎない、というのである。
もちろん、ある学問分野の研究者がことごとく知的に怠惰で愚かである、ということはほとんどありえない。少なくない政治思想研究者は、そうした揶揄を真摯に受けとめて自省を重ねてきた。この四半世紀の日本におけるこの学問分野の急速な展開と変貌は、その産物である。
学問でないという批判に応えるため、それまで「政治思想史」という名称で括られて表現されてきた政治思想研究は、「政治思想史」から「政治理論」が別のディシプリンとして分離するかたちで、専門化の要請に応えようとしてきた。このことは、専門書や大学講義名の変化を辿ればあとづけられよう。歴史研究と理論研究のこうした専門分化のなかでは、エッセイであると冷笑された政治思想史分野においてすら(本書のなかで安武真隆が解説する海外の動向を摂取しながら)分析方法についての意識が高まった。たとえば、テクストの意味や継承関係について、どのようなアプローチであれば妥当性が高い論証をなしうるかが自覚的に問われるようにもなった。
さらにこの十年には、政治理論分野における「分析的政治哲学」と呼ばれる潮流の急激な伸張がめだっている。それは、「今日においてメインストリームになっている」(井上彰)。分析的政治哲学は、分析哲学の影響のもとに、たとえば「正義」や「平等」のような規範的概念を徹底して概念分析して、それらについて明晰で厳密な論証をめざす潮流である。政治思想研究における専門分化は、分析方法や方法論に自覚的な研究者世代を生みだしてきている。
こうした学問の急速な変貌のなかで、政治理論研究に限ってもさまざまなアプローチが登場して、そのイメージは多様化している。そうした現状をふまえて、本書『政治理論とは何か』では、政治理論研究の現状とあるべき姿をめぐって、このディシプリンの内部・外部の十名の研究者がそれぞれの観点から吟味を連ねている。本書は、政治理論研究の最前線を伝える、類を見ない成果である。
しかし、現状においてそもそも政治理論研究は本当に学問といえるか? 現実的課題に有効な解答を提示できているか? 本書においてディシプリンの外部からは、学問の現状に厳しい批判が向けられる(河野勝、盛山和夫)。
第一に、政治理論研究は方法・方法論に対する関心を欠いており、政治学の他領域から取り残されている。第二に、政治についての理論的研究の地位を独占的に自称するのは僭称であり、「政治理論」でなく「規範分析」と呼ぶのが正しい。第三に、政治理論研究は、正義論にしても、熟議民主主義論という「手続き的正義」論にしても、単なる理念の探求にとどまっている。それは、現実の政治を度外視しており(その意味で「脱政治的」であり)、結果として現実に対する応答性・有意性を欠いている。たとえばこうした批判である。
政治理論研究に対する忌憚のないこれらの批判が、本書の中核的テーマを構成している。そして政治理論研究の立場から執筆された前半の五つの章は、これらの批判に応答していると読むことができる。
たとえば、編者のひとり井上彰は、ブライアン・バリー、ロールズ、ドゥオーキンを分析的政治哲学の系譜に位置づけながら、分析的政治哲学が明確な方法を具えることを論じる。これは、第一の批判に対する応答である。井上の章が示すのは、政治理論研究の展開は方法論の深化を伴ってきたという事実にとどまらない。方法論の吟味がなければ、政治理論分野における分析はもはや成り立ちえない、というのがそのメッセージである。
もうひとりの編者・田村哲樹は、第二・第三の批判に応じている。田村の章は、分析的政治哲学に代表される「規範的政治理論」とは区別される、もうひとつの政治理論の存在を指摘する。政治学は倫理学の延長に位置するばかりではないからである。田村はこれを「政治/政治的なるものの政治理論」と命名する。
それは、強制の契機をきちんと見据えるとともに、道徳や経済によって完全に規定されているわけではないわれわれの共同体を束ねる「政治的なるもの」に着目する、そのようなタイプの政治理論である。近年のラディカル・デモクラシー論がその一例とされる。図式的に表現するならば、このタイプの政治理論は、規範(やそれを吟味する知である規範的政治理論)を政治共同体のなかに位置づけたうえで、これら全体を視野に収める観点を採っている。そうであるならば、政治理論研究は「規範分析」に等しい、という第二の批判に対しても、理念の探求にとどまって現実の政治を無視しているという第三の批判に対しても、こうした政治理論は異を唱えるであろう。第三の批判に対してはさらに岡?晴輝が、分析対象をシフトすることで現実に対する応答性・有意性を獲得しうると論じる。
田村の分析は同時に、本書が問い直しているのは政治理論という学問だけに限られないことを示している。政治の学に対する検討作業は、政治という現象そのものに対する検討作業と連続しており、両者は不可分である。西山真司は、ひとびとが社会生活のなかで日常的・無自覚的に抱いている、政治についての見方(「日常的な政治理論」)こそが、政治のリアリティを構成して意味づけを与えていることを指摘する。そのように政治現象が成り立っているならば、記述的な経験的政治学と規範的な政治理論研究を二分する通念は単純には維持しえなくなる。経験的か規範的か、という通俗的な二分法に対する疑念は、政治理論の歴史を論じる松元雅和の章のほか、本書の多くに見いだせる。
もとより、本書の試みは、政治理論研究の内部・外部からのさらなる批判に開かれている。しかし少なくとも確かなのは、「規範を論じるエッセイにすぎない」という揶揄に対する自己反省から始まった真摯な学問的吟味が、「政治理論」分野では、着実に継続している事実である。翻って、「政治思想史」分野ではどうだろうか?