実は私、グリーンの孫弟子だったんです!
──デイヴィッド・グリーン『ギリシア政治理論』邦訳上梓に寄せて
渡邉雅弘
(わたなべ まさひろ・愛知教育大学教授

最近それを知って驚きました。しかも不肖の、です。「謝辞」にある屈指のギリシア史家アストワルド先生に古典文献学・書誌学を学んだ折に購った原著を三十余年死蔵してきたからです。先生とグリーンとのシカゴ大学での師弟関係も、L・シュトラウス山脈の系譜も知りませんでした。渡米時の大晦日、シカゴに訳者の一人飯島氏を訪ねると、氏はJ・クロプシ、シュトラウス、「亡命者の政治哲学」などを一夜、水を得た魚のように語りました。「偉大なる対話」のハチンス、著者グリーン、その愛弟子で相対主義批判のA・ブルームについては?年越しの花火に消されてか、憶えていません。

この度、シュトラウス学統研究の副産物として、訳者四氏一二年にわたる腐心の訳業が上梓されなければ、原著は書棚に積ん読のままでした。「訳者解説」によれば、飯島氏はグリーンのシェイクスピアのゼミナール聴講を奇貨として、達意の意訳に走らず、むしろ著者の用語法と為人を伝える武骨な直訳に心を砕きました。文は人。書かれたものを通して、書いた人の見たものを見る、この第一級の人間理解が文献学と、碩学にも権威にも阿ねずイカれない自由な究学心を貫く教養の要諦でしょう。テキストとの格闘が最良の師です。

原題Man in His Pride(1950)、後にGreek Political Theory:The Image of Man in Thucydides and Platoと改題の原著は、政治的思弁の原郷と「悲劇的人間」理解の究学の書、ヨーロッパを呪縛しギリシア人のように見、ギリシア人のように考える「精神の発見」と悲劇的保守主義論の白眉です。世界の惡意と不条理、運命に翻弄されつつも、デルフィの箴言「汝自身を知れ」の格率に忠実に、挫折や敗北、破滅を厭わぬ悲劇と保守の極限を生きた人間の思索を活写する、教養(智慧)の書の訳出は滅びの現代への挑戦です。

教養は知識の蓄積に盡きません。昔、歌舞伎町に出没したカトリックのネラン神父に実学とは異質な「學」の要訣、即ち「最高の教養とは最も役に立たないこと(古典)を最も一生懸命に學ぶこと」と一喝されました。直ぐに役立つ知識は直ぐに廃れます。ぶれずに生きる智慧が教養の本道でした。しかし生活労働は人の「暇」を奪って逆に疎外を亢進させ、古典の批判的思考力やイロニーの再定義も虚しく、今や大学教育の「古典帝国主義」は消滅しました。

この四〇年、古典学界には第三次ヘレニズム・リバイバルが定着しました。第一次は一九世紀の史家ドロイゼンの出現、第二次は最初の全体戦争後に、戦間期のシュペングラー『西洋の没落』(1918-22)が象徴する「知的帝国主義」の転落です。もとよりヘレニズム自体、解体変容するヘレニック・ポリス(市民共同体国家)世界がアレキサンダーの覇権主義に屈服するとともに新約ヘブライズムにも遭遇し、固有の悲劇的精神の伝統と価値のコスモスが崩壊する精神史上未曾有の大転換期でした。公的空間を喪失した個人主義と世界市民主義の、無原理的な所謂処世哲学が時好に投じた所以です。現代に準えれば、自己吟味不在のミーイズム、トランスナショナル市民社会論、新自由主義の標榜する脱国民国家化、地球市民主義、コスモポリタニズム、多文化共生、総じてグローバリズムの時論跋扈の下、「今ここを生きる」刹那と滅びの哲学です。伝来の羇絆を解かれたポリス市民は「獸」に墮すしかありません。実際、先のイラク戦争では、ツキュディデス描く滅び急ぐ「豚の国」アッティカ帝国が「猛獸(僭主)の哲学」を以て殲滅するメロス島談判の件りが古典学界を震撼させました。歴史主義はもとより、実存主義、構造主義、「真理/道徳/共同体」を嫌惡するポスト・モダンの脱構築と「反(プラトン)哲学」に収斂する趨勢が、現今ヘレニズム復興の背景にあるはずです。世界は寛大(平等)に隠れた他者への無関心と狂暴が極北化する、倫理と文化の相対主義の陥穽にはまりました。

一方、最高峰の史家と哲学者という奇矯な取り合わせで、政治的思弁の淵源と極致を論じた原著は幸い版を重ねました。ツキュディデス論では、必然と偶然の交錯する史論や慢性的戦争状態下の愚行は永劫不変とする人間性論、難渋な文体論研究が今も常道です。史家に政治哲学とは外道ではないか、と当初シュトラウスの違和と不評を買いました。さて、プラトンは爾後の欧米哲学史をその「脚注」に貶める知的源泉であり、危機の政治哲学者です。第二次大戦の余燼が燻り文化相対主義が忍び寄る思潮の窮境に、グリーンは同時進行の第二次ヘレニズム復興を凌駕して沸騰する「プラトン復興」、即ち「二十世紀のプラトン」の問題化の洗礼を受け、プラトン論の坩堝「三十年戦争」の神話的解釈、政治的再解釈、非政治的新解釈の変転の奔流に敢て挑みました。それはファンタジーでもプロパガンダでもありません。類書と似て非なる、史的背景と現代政治情勢との著しい類似を分析する堅牢な歴史研究であり、ファシズムやコミュニズムを論う半可通アナクロニズムの局外にあります。無論「全体主義者」プラトンとヘーゲルを「自由社会の敵」と糾弾する、来るべきポッパーの皮相な呪縛とも、胡乱な「歴史の終り」の宣告とも全く無縁です。

原著は半可通プラトン論の渦中で時流に抗って古典学の正統に還る一方、ギリシア固有の悲劇的人間論の不動の核心を衝く、重層の反時代的考察です。ツキュディデスとプラトン、グリーン、訳者には同心円的な叛骨の共感があるでしょう。保守は生き方という原著の機微に感佩した訳者が、敢て直訳を以てその驥尾に付した所以です。

古典学には学術物、通俗物、通俗的かつ学問的作物の三種があります。学術物は古写本の蟲の仕事で、原典や碑文の一語を究める考証を典型とし、百年の解釈を覆す可能性を孕みます。宛らA・フランス描く老学究シュルヴェストル・ボナールを髣髴させます。通俗物は当代の研究水準の概説で、「誰もが書名を知るだけで読まない」古典への入門と一般的関心の底上げが期待されます。一方、通俗的かつ学問的作物には教養俗物型と教養耆宿型があります。例えば前者では、一行の原文と格闘しなくても、プラトン論を書くことが可能です。古典のデーモンに憑かれもせず、外面的附随的知識を後盾に時局認識を古代に投じる「人間」理解不在の半可通リサーチでは、古代史は現代史の、古代思想は現代思想の騙し絵に化けます。しかし後者には、古典一語の味読に沈潜する「十年の徒弟奉公」が人間理解と政治文化の中心問題に肉薄し、長い時を費やす研鑽の果てに円熟する教養の名品があります。つとにギリシア悲劇、ヘロドトスの英訳及びツキュディデスのホッブズによる英訳の紹介と普及で令名を馳せたグリーンの労作は、後者の逸品です。

周到な「訳者解説」は正統で叛骨の本書理解への貴重な貢献です。しかし反復熟読が古典沈潜の醍醐味であり鉄則です。グリーンの労作が今や忘れられた現代人文学の古典だとすれば、この「白鳥の歌」を繙く一手間を惜しまなければ、お楽しみはこれからです 。


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