憲法裁判所界の第一走者の光と影
──イェシュテット/レプシウス/メラース/シェーンベルガー『越境する司法──ドイツ連邦憲法裁判所の光と影』の刊行によせて
山元 一
(やまもと はじめ・慶應義塾大学教授

筆者の主要な研究領域の一つは、フランス憲法思想史および現代フランス憲法理論の研究であるが、このほど邦訳書『越境する司法──ドイツ連邦憲法裁判所の光と影』が出版される運びとなり、大変嬉しく思っている一人である。

すでに数年前に、ドイツ公法学界の中堅にあって卓越した力量を示し、現在のこの国の公法学を牽引する四人の論者が共同でドイツ連邦憲法裁判所をテーマに注目すべき論文集を出版したという話は、複数の日本のドイツ憲法研究者からの耳学問で知っていた。ドイツ語を自由に読みこなすほどの能力がないため普段は殆どドイツ語の研究書を購入しない筆者が、にもかかわらず本書の原書を購入していたのであるが、それにはそれ相応の理由があった。というのも、筆者はドイツ公法学関係者と直接的な交流はないもかかわらず、本書の四人の論者のうち、オリヴァー・レプシウス、クリストフ・メラース、クリストフ・シェーンベルガーの三者には面識があったからである。

レプシウスと出会ったのは、おそらく二〇〇四年にパリ第二大学で行われたシンポジウムであった。レプシウスは報告者の一人であった。その懇親会でレプシウスを筆者に引き合わせてくれたのが、フランスでドイツ公法思想史研究をリードするオリヴィエ・ジュアンジャン(ストラスブール大学教授)であった。ジュアンジャンは、フランス公法学界において仏独の交流を推進する中心人物である。その後、彼の紹介によって二〇〇六年一二月にフランス・アヴィニョン大学で開催された仏独公法学者交流グループの研究会の見学を許された。この研究会は、それぞれの研究者が母語で報告し自由に討論するという、まことに理想的な比較公法学的空間であった。ちなみに、このグループにドイツ側のリーダーとして参加していたのがヨハネス・マージング(当時アウグスブルク大学教授、その後二〇〇七年からフライブルク大学教授、二〇〇八年にドイツ連邦憲法裁判所裁判官に就任)であり、この場には、レプシウスのほかメラースが参加していた。フランス側の参加者にはジュアンジャンの他、パリ第二大学ミシェル・ヴィレー研究所所長を務め、現在のフランスの指導的憲法学者であるオリヴィエ・ボーも参加していた。この研究会ではドイツのF?d?ration/ F?deration理論についてのボーの報告のコメンテーターがメラースであった。

そもそも筆者がジュアンジャンやボーの研究に興味を持ったのは、現代フランス憲法理論の研究を進めていく過程で、彼らのドイツ公法研究が現在のフランス憲法理論の水準を大きく引き上げるために不可欠の役割を果たしている、と確信したからである(逆にいえば、それなくしては、フランス憲法学の〈法学としての理論水準〉は低迷するほかはない、と思われる)。ジュアンジャンの博士論文は『ドイツ法における法律の前の平等原理』であったし(その後、サヴィニーからイエリネックへの法学の理論的展開を追跡した『あるドイツ法思想史(1800─1918)』を刊行し、ドイツ語からのフランス語訳としては、例えば、ヘルマン・ヘラー、フリードリッヒ・ミュラー、エルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデの著作がある。)、ボーのそれはボダンの主権論研究に力を注ぐ『国家権力』であるが、後半では現代ドイツ憲法理論研究からも知的養分を得ていることを見て取ることができる(カール・シュミット『憲法理論』のフランス語訳に寄せた解題「カール・シュミットもしくはアンガジュマンをした法律家」が有名で、訳業としては、ハンス・ケルゼンの著作がある)。シェーンベルガーとは最近別のフランス公法学者の紹介で会食する機会があり、最近のドイツ公法学の動向、特にケルゼン・ルネッサンスについて極めて流暢なフランス語で説明を受けることができた(会話は、本書の著者の中で筆者の面識のないイェシュテットの活動が中心だった)。

このように、フランス憲法研究の側から知的共同体として緊密な関係が構築されている仏独研究者交流の一端を知る機会のあった筆者からみると、本書で展開された議論は、やがてフランスの憲法裁判研究にも直接的間接的に影響を与えていくことが予測される意味でも強い興味を引かれる。本書との対比においてフランス憲法学、とくに本書のテーマとなっている憲法裁判研究を見つめ直すと、フランス憲法学は、本書が強調する「法学的に議論を行う、という観点」(メラース「日本語版へのはしがき」)において致命的とすらいってよいほどの欠陥を抱えてきたといっても過言ではない。すなわち、一方で、教科書出版文化の中で幅を利かせる、憲法院の産出する憲法判例の凡庸な整理と、他方で、不確かなあるいはイデオロギー的見地からの浅薄な制度説明に終始する理論化の狭間で、まさに、「法学的に議論を行う、という観点」が乏しい。実際、ジュアンジャンは、法=制度的視点の重要性を強調しつつ、フランス憲法学界で有力に主張された「憲法裁判のヨーロッパモデル」なるものが殆ど学問的な批判に耐えないことを痛烈に批判している。本書の諸論文を手がかりにすることによって、彼が具体的に何を引証基準としながら自国の学問をこれほどまでに激越に批判しているのかをよく理解することができる。そして、本書で展開されている考察を手がかりにすることによって、今後ドイツの議論状況に明るいフランスの公法学者によって、本書の問題意識の系をなしている、?方法論、?民主制論、?グローバル化・欧州化について(高田篤「解説」参照)、に関してフランス公法学でいかなる議論が触発されるかを観察し、それについて筆者なりの立ち入った検討を加えることができる確実な足場が与えられたことが何よりも嬉しい。

さらに、日本のドイツ公法学研究者たる訳者たちがそもそも本書の翻訳の意義をどのように考えているかが、対象国は異なるが同じく比較憲法学に携わっている筆者にとって極めて示唆的である。高田「解説」によれば、本書は多くの読者を獲得したにもかかわらず、必ずしもドイツの公法学界で論争の的になるには至っていないようであり、一見逆説的なことに、このことがむしろ訳出の動機だ、というのである。つまり、本書の刊行は、ドイツ公法学の成果を「一方通行的に日本に紹介する」という、訳書の出版にありがちな動機に基づくものではなく、だからこそ本書をめぐりドイツの公法学者相互の充実した議論を活性化させることを目的とし、「第三者」(=訳者たちを中心とする豊富な比較憲法的業績を蓄積させてきた日本の研究者)の「介在」(=積極的な論争への介入)のための準備作業として位置づけられているのである。訳者たちが共有するこのような〈輸入法学〉の克服を企図するアンビシャスな姿勢は、これからの日本の比較憲法学の進むべき方向である、と強く共感する。筆者は、ボーを中心に推進されている最近フランスにおける憲法学の新たなムーブメントを日本に紹介する仕事を行った(山元=只野編訳『フランス憲政学の動向』二〇一三年)が、現時点ではまだこのような展望は描けていない。近い将来、日本の仏独公法学研究者が共同で、ヨーロッパ公法学を挑発し活性化することのできる企画を実現することができれば、と考えている。



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