リベラリズムと立憲主義を擁護する真剣な試み
──S・マシード『リベラルな徳』の刊行によせて
井上 彰
(いのうえ あきら・立命館大学准教授

リベラリズムや立憲主義の支持者は、日本をはじめとする多くの国で、(消極的な支持者も含めると)大多数を占めるように思われる。われわれは概ね、市民の自由を平等に保護し、資源(所得)の公正な分配を確保する枠組みを基本的に信頼している。だからこそ、いかなる権力によっても侵害されてはならない権利として、そうした平等な自由や公正な分配を保障するリベラルな立憲主義が多くの国で採用されているのだろう。しかし周知のように、リベラリズムや立憲主義はたびたび疑問視され、ときに脅かされてもきた。

本書は、そのリベラリズムと立憲主義の精髄を明らかにし、そのうえでリベラルな立憲主義を本格的に擁護する作品である。一九九〇年に公刊されたこの作品は、とくにアメリカのリベラリズムと立憲主義に独自の解釈を与えたうえで、改めてリベラルな公共的理念や立憲主義の枠組みを擁護したことで有名である。当時のアメリカ政治思想では、リベラルな政治を批判するコミュニタリアニズムや逆にそのあり方をアイロニカルに擁護するリチャード・ローティの思想に注目が集まっていた。マシードの議論は、その両者を斥け、リベラリズムに新たな光を与えるものとなっている。

マシードはまず、「リベラルは共同体や徳といった積極的理想を語ら(れ)ない」とするコミュニタリアンに対し、リベラリズムが市民の徳と実践に依存する構想であるとして(本書のタイトルともなっている)「リベラルな徳」に基づくリベラリズムの優位性を説く。ローティの「リベラリズムはわれわれが歴史偶然的に構成してきた政治共同体の慣行にすぎない」とする開き直りともとれる議論に対しては、それでは共同体が恣意的に設けてきた区別(たとえば女性やマイノリティへの差別)をリベラルの名の下に是認してしまうとして、その区別に正当な理由があるのかどうかを批判的に検証する公共的理念こそが、リベラリズムの真髄であると反論する。

もっともマシードの議論は、コミュニタリアンやローティへの反批判にとどまるものではない。それを決定づけるのが、公共的正当化をリベラルの中核とする構想である。公共的正当化とは、理性に限界があることを認めつつも、理由付与とその共有を目指す営為である。その営為は性質上、恒久的かつ断続的なものであり、それゆえ常に批判にオープンな体制を要求する。多元主義の事実をふまえてリベラルな政治が目指してきたのは、こうした体制づくりにほかならない。だからこそ人びとは、リベラルな体制に公的レベルではもちろんのこと、個人的なレベルでもコミットする一方で、そのコミットメントに自分の生き方をそのまま投影することなく、多くの理性的存在との共生を可能にする仕組みを支えようとするのである。リベラリズムがすべての市民の参加を前提とする仕組みをその真髄とするのは、こうした公共的正当化を追求してきた制度的実践の歴史と切り離せない。

アメリカにおいて、そのリベラルな制度的実践の長い歴史を支えてきたのが立憲主義である。マシードは、アメリカのリベラルな立憲主義がフェデラリストの思想に根ざしたものだとする一方で、憲法解釈を原意主義的に捉える見方を厳然と斥ける。マシードに言わせれば、憲法の制定者だろうが最高裁判所だろうが大統領だろうが、彼ら(のうちのいずれか)に憲法解釈に関する特権を与えるべきだとする見方は、アメリカの立憲主義の理念にそぐわないものである。むしろ、司法部、行政部、そして立法部の三部門がそれぞれ異なる視点で憲法を解釈し、その不一致をめぐって市民をも巻き込んで広く議論を行う点にこそ、アメリカの立憲主義を支えてきた精髄がある。実際、ブラウン判決に代表される画期的な司法判断は、人種差別を撤廃する気運を高め、その憲法上の解釈をめぐる活発な公共的議論を喚起した。このようにリベラルな立憲主義は、憲法をめぐって三部門、そして何より市民にそれぞれが示す解釈の公共的正当化を求めるし、実際重要な場面でそれを求めてきた。そのことを通じて様々な不正義が告発され、漸進的にせよその解消に向けて制度が改められてきたのである。

以上のマシードの議論からくみ取れるのは、「リベラルな立憲主義はその枠組みを支える市民の責任なくしては成立し得ない」というメッセージである。特定の事案をめぐって憲法解釈が衝突するときに、市民はそれに批判的に向き合い、真摯にそれぞれの、あるいは自らの解釈の支持理由・反対理由をぶつけて議論することが求められる。もちろんこのことはリベラルな思想が、あたかも一部の知的エリートのためにあることを意味しない。マシードはトクヴィルと同様、様々な制度に入り込んだ自己利益の追求を否定することなく、その当の制度を多元的な権力分立とそれに照応する徳──寛容、自己抑制、自律など──に基づいて秩序づけることこそが、リベラルな公共道徳の基本理念であるとみる。それゆえ、市民が自己利益を追求しつつも、ときに憲法解釈をめぐって批判的に議論する場、何よりそうした熟議を実践する自律的人格の養成が求められるとするのだ。

われわれはこのマシードの議論を、海を隔てたよその国の思想として等閑に付すべきではない。日本でも、リベラリズムや立憲主義は人口に膾炙していると思われる一方、その両者ともに現在、大きく揺らいでいるように思われる。われわれは様々な制度が権力分立の理念のもと、緊張・競争関係にあり、だからこそ憲法上重要な判断で見解が分かれることを多く経験してきている。このとき重要なのが、市民がその判断を批判的に検証することを可能にする多元主義的な制度的環境に置かれているかどうか、そして自律的人格が備わっているかどうか、である。集団的自衛権の行使容認の閣議決定をはじめ、いま日本の政治で起こっていることは、その正否を判定するための格好の事例となっている。そういう意味で、本書の邦訳は時宜に適ったものである 。


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