「世界市民」と「国民国家」
──古賀敬太『コスモポリタニズムの挑戦──その思想史的考察』によせて
山田竜作
(やまだ りゅうさく・創価大学教授

近年、「世界市民」の育成を掲げる大学が増えている。人類が共通に抱える地球的問題群に対して、関心を持ち、問題解決に貢献しようという人材の輩出が、日本でも重要な課題と認識されている。しかし、「世界市民」のイメージはいかなるものか。評者がこの原稿を執筆している時点で、サッカー・ワールドカップのブラジル大会が白熱しているが、何か国ものチームで活躍してきた世界的プレーヤーのように、国際舞台で通用する実力の持ち主が「世界市民」だと考える学生もいるのではないか。また、語学力や異文化理解力を備えた人材が「世界市民」だとすれば、理想的な人間像にも見える。国際NGOなど、国境を越えた市民の連帯についても、語られるようになって久しい。

だが、個人を「世界市民」と見なすことに、必ずしも万人が賛同するわけではない。それに対しては、人間の道徳性に過剰に期待しているとか、具体的な国家や文化への帰属感を持たない「根なし草」であるとか、数々の批判が考えられる。「世界市民」を自認する人が、近隣諸国と領土問題が起きたと聞けばたちまちナショナリストになることもあり得よう。先のワールドカップが、国家単位の戦いであることもまた否定できまい。各チームは基本的にナショナル・チームであり、日本の選手も応援するファンも「日の丸を背負って」戦い、声援を送る。国内の福祉の優先を求めて開催に反対したブラジルの人々と、私たちはどこまで連帯しただろうか。そこには「国境線(ボーダー)」が厳然と存在する。

一人の個人は、何より「同じ人間」として人類共同体の一員たる「世界市民」なのか。それとも、まず特定の国家や政治共同体の成員(つまり「国民」)と考えられるべきか。前者の考え方を「コスモポリタニズム」と呼ぶとすれば、後者はそれに対して批判的ないし懐疑的な、ナショナルな立場となろう。現代のグローバル化時代にあって、確かに一方では、地球的問題群に対処するために人類意識や「世界市民」としての自覚が要請されることは間違いあるまい。しかし他方、ナショナルな単位を画する国境線には、政治面でも個人の心情面でも相当のリアリティがある。コスモポリタンかナショナリストかという二者択一の問題でないとすれば、この両方の立場はそもそも思想的・理論的にいかなる関係にあるのか──。この難問を考える際の導きの糸になるのが、本書である。

本書は大きく二部構成となっており、第I部では、古代から近代へと至るコスモポリタニズムの思想史を検討した上で、より現代的な思想家・理論家たち──マリタン、ヌスバウム、ヘルド、ハーバーマス、ポッゲ──が取り上げられている。一口に「コスモポリタニズム」と言っても、それぞれの論者の立ち位置は異なる。本書では、人間の平等な倫理的価値と尊厳を重視し、排他的な国民国家を克服しようとする「道徳的コスモポリタニズム」と、人類共同体の一定の制度化・法制化を目指す「法制的コスモポリタニズム」との区分が指摘されている。続く第?部では、それに対して主権国家・国民国家が政治的単位として依然重要であると考える論者たち──シュミット、ロールズ、ウォルツァー、ミラー──のコスモポリタニズム批判が紹介される。著者は、例えばロールズのようなリベラリストとシュミットとを同列に並べることに読者が抱くであろう違和感を意識しつつ、彼らが国際秩序の圧倒的な単位として国民国家を考えているところに、有意味な共通性を見出している。

本書の特徴はまさに、「世界市民」を出発点とする側と、「国民国家」を出発点とする側との、真摯な対話の試みにある。前者は決して、国民国家を否定して単一の世界政府を目指そうとしているわけではない。他方、後者も狭隘なナショナリストとは限らず、人権や世界平和の重要性を認識し、世界規模の経済格差の解決を求めてもいる。だがしかし、議論の出発点が異なれば、グローバル化に伴って問われている困難な問い(国境を越えた財の再分配は是か非か、人々のトランスナショナルな連帯はどこまで可能か、人類の普遍的価値に見えるものが実はアメリカなど特定の国家の文化的産物に過ぎないのではないか、世界政府が存在しない中で「コスモポリタンな市民権」を語ることはできるか、等々)への応答もおのずと異ならざるを得ない。

著者が指摘するように、「世界市民」対「国民国家」という対立軸と、「リベラル」対「コミュニタリアン」や「ネオリベラル」対「社会民主主義」といった他の対立軸は、そのまま重なるわけではない。本書は、それらのイデオロギー的布置状況を整理して各論者を位置づけるよりも、むしろ論者自身にそれぞれ語らせることで、コスモポリタニズムをめぐる諸言説の多様性と豊潤さを読者に味読させる構成となっている。シュミット研究に長年携わってきた著者の、「以前であればコスモポリタニズムに関する著作を書くことなど思いもよらなかった」との言は重い(1頁)。もともと主権国家後の秩序像を描き出す著書として構想された本書は、昨今の「グローバル市民社会」論や「グローバル・ジャスティス」論に関心を持つ読者にとって、多くの重要な論点を学ぶ貴重な一書となろう。



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