本書の著者は、我が国を代表するコミュニタリアンとして、政治学の研究者を越えてその名が今日とどろいている。著者の見るところいまだにいわゆるリベラルの発言が幅をきかせている現代日本の論壇にあって、コミュニタリアンの旗幟を鮮明にした上で歯切れよく現代の事象を論じる姿勢は、新鮮である。著者の立場は、伝統的な、そして今再び関心を呼んでいる保守主義とは異なるものとして、それ自体検討に価するであろう。しかし、評者のように過去の思想をその時代の文脈の下に能う限り忠実に再現しようとする政治思想史を学んできた者にとっては、著者の名は中世から近代への過渡期のイギリス政治思想史の研究者という印象が強い。トマス・モアの『ユートピア』を中心に当時の政治思想を論じた一九八七年の『ユートピアの政治学─レトリック・トピカ・魔術』は、政治思想史の枠に収まらない優れた精神史研究として評者に多大の影響を与えた名著である。本書は、第一部「ルネサンス・ユートピアの諸相」において政治思想史研究者としての著者の健在ぶりを示すものであると同時に、第二部「政治思想と現代のユートピア」においてコミュニタリアンという著者の規範理論家の立場をも強調したものである。それ故にこの書評における評者の関心は、近世イギリス政治思想史研究としての本書の意義ではなく、しかしコミュニタリアンとしての著者の立場の当否に向けられているのでもなく、政治思想史研究と現代規範理論が著者の中でいかに結びついているかという点に専ら存している。現実に対する問題意識は、過去を過去として眺め且つ尊重する歴史家としての眼差しがあってこそ鋭いものになるのであり、本書はそのことを示す恰好の素材であると考える。
しかしながら、「この「コミュニタリアニズム」に関する研究は「ユートピアニズム」と関連なく始められたものであったが」(四〇九頁)と一見評者の期待を裏切るようなことを述べる著者ではあるが、この言葉は文字通り受け取るべきではないであろう。モアの『ユートピア』におけるレトリックの重視と、それがプラトン以来の西洋精神史を一貫する哲学・政治哲学の主流に対してもった批判という前著『ユートピアの政治学』の論点は、本書にもしっかりと受け継がれているからである。レトリックの意義の再評価は、一九六〇年代以降の実践哲学の復興運動の中で枢要な位置を占める論点であり、それはアリストテレス哲学の再評価という思想史上のトピックであると同時に、奇妙にも現代の民主主義とファシズムの両者に共通する「真理の政治」を批判するという現代規範理論の問題意識とも結びついていたのである。モアについて述べた本書の次の言葉は、そのまま現代日本のリベラルにも妥当すると著者は考えている。「モアの、そしてヒューマニストの思想の真の意義は現実に密着しながらも、しかもつねにそれを対象化して批判的な眼で眺め、思想や文化の根源にたちかえり、異質な空間、批判基準を導入することで、人間と世界のあり方を根底から問い、しかもつねに教条的でない自由な立場を維持して、人々を新たな覚醒と再生に導くところにある。」(九〇頁)
しかし、この著者の信念に同意しても、真理の強制に抗する立場がコミュニタリアニズムであるという点には異論もあるだろう。評者自身は以前から著者のコミュニタリアニズム、すなわち「共通善」の政治学には違和感を覚えてきた。たとえその内容に関しては歴史的な可変性を認めるとしても、「共通善」を想定することは「他者」を排除し空間を閉じることにならないであろうか。なぜならば所与の共同体の中で一定程度歴史的に共有されてきたコミュニタリアン的な「共通善」と、その都度人々の参加と合意が共同体を構成すると考える現代共和主義とは、やはり区別すべきであると考えるからである。著者は、「あらかじめ与えられて存在する前提としての「共通善」と、コミュニティ(アソシエーションも含む)をともに協働して形成していくための目的としての「共通善」」(四二三頁)の区別をさほど重要なものと見なしていないようであるが、後者こそが著者がモアのユートピアに見出し、現代でも現実を映し出す鏡として要請されていると考えるユートピアであると信じるからである。「たしかに、私たちは民主主義のもとで暮らしていると思いこむと、もはやその「民主化」を考えなくなるようです。存在しないものが存在すべきだ、つまり「ユートピア」を必要と私が考えるのも、とりわけこのような意味からです。」(六〇─六一頁)この言葉に満腔の賛意を表する評者は、著者の「ユートピアニズム」には同意しながらも、その「コミュニタリアニズム」には判断を留保したいと思うものである