ドイツ政治哲学は反形而上学か?

Ch・ソーンヒル著『ドイツ政治哲学──法の形而上学』(永井健晴訳)刊行に寄せて
古賀 敬太
(こが けいた・大阪国際大学教授

今回、German Political Philosophy─The Metaphysics of Law, 2007の邦訳が出版された。本格的なドイツ政治哲学の研究書が翻訳されたことは歓迎すべきことである。近年ドイツ法やドイツ政治思想に対する関心がとみに減少している状況を考慮すると、今回の翻訳書の出版はあらためてドイツ政治哲学史を総体的に考察する絶好の機会となる。現在著者はグラスゴー大学の教授であるが、評者は彼がロンドン大学のキングズ・カレッジに勤務していた時に、安世舟教授の紹介で一度お会いし、シュミットに関して議論した経緯がある。

本書のモチーフは、序論と結論において明確に示されており、ドイツ政治哲学の一貫した特徴を形而上学批判と人間の自由の救出、つまり形而上学の終焉の後に「自己立法と自己創造」による「真正な人間性や正統性を有する政治」(一三頁)を実現することに求めた。著者は、「ドイツ政治哲学史を貫通しているのは、法自然主義(自然法)の理論的な諸要因(境位)を実定的な諸見解に変換させようとする努力である。」(六八五頁)と述べ、それこそが「法の人間主義」(legal humanism)の立場であると言う。「法の人間主義」とは、人間存在が人間的な諸法の源泉であり、人間なるものは、立法の諸行為を通じて人間的な自由と人間的な法の宇宙を築きあげるというものであり、カントからアーレントやハバーマスに至る系譜を指す。

ここで、簡単に本書の目次を紹介しておくことにする。

第一章「宗教改革と法(律法)の頽勢」では、ルターの唯名論によってトマス・アクイナスに代表される中世的自然法的秩序が解体される経緯を紹介し、第二章「初期啓蒙思想―どちらの自然法なのか?」では、プーフェンドルフやトマージウスの意志論的自然法論とライプニッツの規範的自然法論という二つの自然法論の系譜を辿っている。第三章「ドイツ観念論―啓蒙思想と法の形而上学の再構成」ではカント、フィヒテ、ヘーゲルにおける法の形而上学や自然法論の再興の試みが紹介され、第四章「歴史主義とロマン主義―形而上学としての自由主義に抗して」では、自然法論に対抗して法の根拠を民族性や歴史に求めるサヴィニーやシュレーゲルといった歴史主義者やロマン主義者の所説が紹介されている。第五章「青年ヘーゲル主義者とカール・マルクス」では、青年ヘーゲル主義と、それを受け継いだマルクスの形而上学批判が展開され、第六章「法実証主義と有機体論―初期ドイツ自由主義の二つの相貌」では、ラ―バントやイェリネクに代表される法実証主義とギールケやプロイスによって展開された有機体論が等しく自然法論を批判する自由主義の担い手として登場しつつも、いまだ双方とも形而上学的であることが批判されている。第七章「生気論者の幕間劇―脱人格化と法」では、生の哲学の系譜に連なるニーチェ、ディルタイ、ジンメル、ウェーバーの法哲学が取り上げられ、生のエネルギーを抑圧する近代啓蒙主義の形而上学や自然法論、またその世俗化形態としての法治主義が批判され、第八章「新カント主義とその余波」では、コーエンやシュタムラーなどの新カント主義の法理論と、それを批判するシェーラーやハイデガーの現象学的法理論が展開されている。第九章「ヴァイマール共和国における国家の諸理論」では、純粋法学を主張するケルゼンと、それに対抗するヘラーの社会国家論、スメントの統合理論、シュミットの決断主義が論じられ、第一〇章「『批判理論』と法」では、フランクフルト学派のノイマンやキルヒハイマーの自由民主主義批判やアドルノの啓蒙主義批判が展開されている。第一一章「再建の弁証法―人間主義と反人間主義の政治論」では、ヤスパースやアーレントなどの人間主義の側に立つ政治論の試みが紹介され、第一二章「ユルゲン・ハーバーマスとニクラス・ルーマン─二つの競合する形而上学批判」では、ポスト形而上学時代における法理論のありかたを、「法の人間主義」を審議的デモクラシーを通して達成しようとするハーバーマスと、「法の人間主義」に反対してシステム論を説くルーマンとを対比しながら論じている。

すでに述べたように、本書の眼目は「法形而上学批判」や自然法論批判がドイツ政治哲学の中で一貫して見られる特徴であることを証明することにあった。恐らく読者はこの著者の主張に違和感を覚えるであろう。はたして、ドイツの政治哲学が形而上学や自然法論を解体ないし批判することによって人間の自由や政治の世界を救出しようとしたと言えるであろうか? 逆にドイツの政治哲学はヨーロッパの他国のそれと比較して圧倒的に形而上学的と言えるのではなかろうか? 実際ドイツ政治哲学の歴史においては、自然法論と法実証主義、形而上学と実証主義、実在論と唯名論の相克が繰り返し形を変えて現れており、形而上学批判が一貫しているわけではない。ソーンヒルは、ニーチェやハイデガーの形而上学批判を継承し、ポスト形而上学的な時代における人間の自由や秩序形成のモデルをドイツの政治哲学史に逆投影しているのではないだろうか。

そもそも「形而上学」という言葉そのものが、多様な形態を区別することなく用いられている。プラトン的な現象と本質という形而上学的二元論もヘーゲル的一元論も、カントの道徳的人格主義も、はたまた法規範の支配も、あげくのはてに自然科学的な法則の支配もすべて「形而上学」という言葉で表現されており、用語上の不要な混乱を産み出している。「形而上学」という言葉が論敵を批判するレトリックとして用いられると、ルーマンのように、世界を人間主義的に解釈するハーバーマスを「形而上学的」と批判し、ハーバーマスのようにルーマンのシステム論を「人間主義を完全に放棄する見解もまた形而上学的となる」と批判することが行われる。

またソーンヒルは、権利と自由の自律的主体を説くカントからハーバーマスに至る「法の人間主義」の立場を、それが自己立法や自己創造の政治的主体を無批判に前提としているので、「形而上学的」と批判せざるをえなかった。その意味においてソーンヒルの「法の人間主義」に対する評価は二律背反的である。こうしたソーンヒルの批判は、彼が「神学概念」の法・政治領域への転用と世俗化という「政治神学」をシュミットから継承していることから生じている。絶対的な神の概念を人間に転用して、人間の主権、自律や自己創造を説く「法の人間主義」もまた政治神学的思考の呪縛下にあり、法の形而上学から自由ではないのである。この点においてソーンヒルはルーマンのハーバーマス批判に賛同したのである。

総じて、仮にドイツ政治哲学を貫く赤い糸が形而上学批判であると認めたとしても、同時に人間の自由を基礎づけるための形而上学への飽くなき渇望を産み出したのもドイツ政治哲学だったのではないだろうか。ドイツ政治哲学における形而上学への渇望は、価値相対主義者ケルゼンがいみじくも語ったように、「人類は恐らく未来永劫ソフィストの解答に満足せず、プラトンのたどった道を血と涙に濡れつつも、辿り続けるであろう。」という言葉の真実性を証明しているといえよう。法哲学が法の正当性や妥当性を問う限りにおいて、形而上学なき法理論はありえないのである。


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