ウォルツァーと国家という難問

マイケル・ウォルツァー著『政治的に考える──マイケル・ウォルツァー論集』(萩原能久・齋藤純一監訳)によせ
有賀 誠 
(ありが まこと・防衛大学校教授

すでに邦訳は一〇冊を超えているから、マイケル・ウォルツァーは、もはやこの国でもこと改めて紹介する必要のない思想家ということになるのだろう。熱心な読者ならよくご存じのように、彼の著作はどれも、読者の思索を喚起する力を持った刺激的なものである。

しかしそれらの著作が、相互にどのようなつながりを持っているのかは、簡単には見通しにくい。コミュニタリアンでありながらリベラル、リベラルでありながら正戦論者、確かにこれは複数のウォルツァーがいるのかと訝しく思わせるほどのややこしさである。

デイヴィッド・ミラーによって編まれた本書『政治的に考える』は、ウォルツァーが長年にわたって書き続けてきた論文から、政治理論にかかわる重要作をセレクトしたものであり、複数のウォルツァーをつなぐミッシング・リンクを与えてくれるものとなっている。またミラーの手になる「序論」も、簡潔かつ的確にウォルツァーの全体像を示してくれており、その点でも、本書は貴重である。

本書全体の紹介は、ミラーが務めてくれているので、ここではひとつのことにのみ言及してみたい。それは、ウォルツァーの政治理論における「国家」の位置づけである。

いまコミュニタリアンの標準的な立場は、次のようなものであるとしよう。すなわち、一方での官僚制「国家」と他方での企業「経済」によって挟み撃ちにされ、衰弱しつつある「中間的なコミュニティ」を擁護し、そこに人々が政治参加や熟議を通して互いに学び合い、共通の利益を発見していく拠点を見出そうとする立場である。このような中間的なコミュニティの重視は、相対的に国家の軽視を導くように思われる。しかしコミュニタリアン陣営に数えられることも多いウォルツァーに見て取れるのは、意外なほどの国家の重視なのである。

第8章「市民社会論──社会再編への道」を見てみよう。ウォルツァーは、市民社会を「強制によらない人間によるアソシエーションの空間」として定義しており、そのような空間の中で、多様なアソシエーションが開花する社会のあり方を、確かに好意的に捉えている。だからこそ「市民社会と全く隔絶した国家は永らえない」と述べるのである。しかしそう述べた後で、すぐさま「市民社会万歳を唱える反政治的傾向には」注意せよと呼びかけている。ウォルツァーによれば、国家を他のアソシエーションと同一視することはできない。「国家は…すべてのアソシエーション活動の限界条件や基本ルールを定める」ものなのである。放置されたままの市民社会からは、極端に不平等な権力関係が生じてくる可能性が高い。それに対抗できるのは国家権力だけなのである。

『正しい戦争と不正な戦争』が「国家主義」的であるとする論難に応えるために書かれた第13章「国家の道徳的地位──四人の批判者への応答」では、この国家重視の含意が、コスモポリタンとの対決の中で、よりはっきりと示されている。批判者たちからすれば、ありふれた残虐行為や社会慣習に基づく抑圧は介入の理由にならないとして他国からの干渉を極めて抑制的にしか認めないウォルツァーは、個人の権利よりも国家の権利を上位に置いている点で非難されなければならない。一方、ウォルツァーからすれば、批判者たちは、暴政的な「体制を転覆し、個人の権利の享受を最大化することを目的とする積極的で干渉主義的な政策に対して」寛大でありすぎる。彼らコスモポリタンは、「権利のリストをただたんに布告し」、後は「それを守るよう強制する武装した人間を探」せばよいかのように考えているのである。しかしこれは権利に関するあまりに単純な見方である。「権利は、それを集合的に承認しているような政治共同体においてのみそれを守るべく強制することが可能」であり、「権利が承認される過程というのは、政治的舞台を必要とする政治過程」なのである。国家は簡単に乗り越えられるべきではないとウォルツァーは考える。なぜなら、第一に、「個別の共同体の舞台において政治過程の結果がしばしば無慈悲なものであるとするなら、グローバルな舞台における結果もしばしば無慈悲なものになると考えるべき」だからである。しかも後者には、政治的な避難所は残されていないのだから、その危険度はより高いと言わなければならない。そして第二に、「政治は、共有された歴史、共同体の感情、受容された慣習に…依存している」からである。グローバルな規模ではそうしたものは想定できず、政治は、単なる強制か官僚制的な操作に還元されてしまう可能性が高い。

結局のところ、コスモポリタンがウォルツァーへの批判の中で表明しているのは、「政治に対する伝統的な哲学の嫌悪」である。これに対して、ウォルツァーの「議論はおそらく政治の擁護としてもっとも良く理解」することができる。市民社会に対して国家を、コスモポリタンに対して国家を対置することでウォルツァーが守ろうとしているのは「政治」だったのである。

政治学者の杉田敦は、『「国家」はいま』という討論集の中で、「思えば社会科学は長い間、国家というものを正面から論じてこなかった」と述懐している。九〇年代以降のグローバル化の急速な進展は、いっそうこの傾向を後押ししたと言ってよいだろう。NGO、多国籍企業、様々な国際機構といったアクターの国境を越えた活動は、国家がもはやその歴史的な役割を終えつつあることを示していると思われたのである。しかし杉田も指摘しているように、3・11は、リスクをヘッジするにあたって国家の役割が重要であることを再認識させた。われわれは、いままた国家という難問に向き合う必要に迫られているということができるのではないだろうか。そしてその作業を遂行するにあたって、本書が与えてくれる示唆は少なくない。ウォルツァーは、本書でもまた、刺激的である


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