英国のオックスフォード大学で政治理論を講じるデイヴィッド・ミラーについては、多くの紹介を要しないであろう。ミラーのこれまでの啓発的な政治理論的取り組みについては、日本でもよく知られている。この関連では、社会主義と自由な市場経済とを何とか調停させようとしたミラーの比較的初期の刺激的な理論的かつ実践的試み(市場型社会主義)、そして「リベラル・ナショナリズム」に関する彼の近年の興味深い議論などが、想い起こされる。その関連で「グローバル正義」を論じる本書は、これまでの彼の政治理論研究の趨勢からは多少とも逸脱したミラーの新しい問題関心と思い入れを伝えるものと理解されなくもない。
しかし、邦訳書で『国際正義とは何か』と題された本書の原文タイトルは、以下のものである。David Miller, National Responsibility and Global Justice(Oxford University Press, 2007). この原文タイトルは、前著『ナショナリティについて』(富沢克・長谷川一年・施光恒・竹島博之訳、風行社、二〇〇七年)との関連からも分かりやすく、ミラーの問題関心の一貫性および展開をよく理解することができる。本書を一読すれば、前著『ナショナリティについて』の続編としての意味合いが強く、「リベラル・ナショナリズム」の立場から近年の「グローバル正義」論のポジとネガとを考察しようとした彼の理論的取り組みとして確認することが可能である。本書では、「訳者あとがき」において富沢克氏が指摘しているように、「ネーションとしての責任」という概念を基軸に、現今のグローバル正義論(ピーター・シンガーやトマス・ポッゲなど)への批判的視座を堅持しつつ、グローバル化の進展により責任の共有度を高めている国際社会への正義履行の枠組みと前提とを議論しようと試みている。
II
ミラーは、本書でまず「コスモポリタニズム」──彼の用語法では「政治的コスモポリタニズム」と「道徳的コスモポリタニズム」──の批判的分析を行っている。「政治的コスモポリタニズム」は、国際政治や国際法の枠組みですべての人々の人権を世界市民としての見地から擁護しようとする立場である。かつては、たしかに世界国家や世界連邦という強固な制度的枠組みを求める運動もあった。しかし、今日では世界の諸国の間に横たわる文化的差異の巨大さのゆえに、また集権的な世界政府関連機構が効果的な民主的統制に服することの困難さのゆえに、「政治的コスモポリタニズム」の強固な制度化を支持する議論は少ないとされる(三五頁)。
それゆえに、本書の課題は「道徳的コスモポリタニズム」とそれがグローバル正義にもつ意味を批判的に考察することである、とミラーは指摘している。ここで「道徳的コスモポリタニズム」とは、地球上のどこに住もうと、どの国家に帰属しようと、人間は同一の道徳的法則にしたがって処遇されるべきだという立場として定義されている(三二頁)。そしてナショナリティーの固有の意義を重視するミラーにとって、ナショナルな義務とグローバルな義務との緊張と調停の問題こそ、焦眉の課題として受け止められるのである(五一─五九頁)。
こうして「道徳的コスモポリタニズム」の立場に立つ時、富と権力と機会におけるグローバルな巨大な不平等・不正義の問題が、喫緊の課題として立ち現れてくる。このグローバルな巨大な不平等の問題に対して、ミラーは、「結果責任」(outcome responsibility/私たちの行動によって帰結する損益についての責任) と「救済責任」(remedial responsibility/それが可能であれば被害や苦痛を取り除く責任)という二つの責任概念を提起し、個々の世界市民というよりはネーションとしての責任の履行の仕方を問題にしている。ミラーは、これら二つの責任概念の異同とそれぞれの意味について、詳細にかつ注意深く議論をしている(一○一─一九九頁)。この議論は、本書の独自の貢献として高く評価できる。
さらに注目すべきは、ミラーが人権に基づいたグローバル・ミニマム論を展開し、人権ミニマリズム論および重なりあう合意論の見地から基本的人権とシティズンシップの諸権利とを区別しつつ、基本的人権を最小限に規定して保護しようと試みている点である。彼はこうした見地から難民や移民問題への足がかりを得ようとしているが、ナショナルな自己決定を重視する立場に立脚しているからか、具体的な原則や施策の提示には至っていない(二○○─二七九頁)。
III
第9章でミラーは、世界の貧困者への責任の問題を取り上げている。彼はそこで、ピーター・シンガーの救済の道徳的義務の徹底化(結果責任というよりも救済責任を問題にしている)の議論を批判的に吟味している。それだけでなく、ミラーは、トマス・ポッゲによる国際秩序の結果責任を重視する議論にも疑義を呈している。彼が最終的に主張しているのは、国際秩序と富裕な国々の政府と市民とが、救済責任の観点からグローバル正義の履行を行うことであり、それには多種多様な要因を考慮に入れなければならない、ということである(二八○─三三七頁)。ミラーの結論は、明快さと具体性ということからは程遠いものとなってしまっている。例えば、ミラーが批判するポッゲは、GRD(地球資源配当税)を提起しているが、このような救済措置や国際制度的対応はいっさい示されていない。
このことは、ナショナルな義務とグローバルな義務との緊張と調停というミラー自身が本書で提起した課題に対して、彼自身、いまだに十全かつ具体的には答えていないことを意味しているのではなかろうか。少なくとも、筆者には、そのように見受けられるのである。しかし、ナショナルな自己決定の要請とグローバル正義の要請との間に適切な調停の橋を架けるという課題そのものが、今日の国際正義論にとって難題中の難題であることは否定しがたい。本書におけるミラーの苦渋に満ちた理論的営為は、この峻厳な事実を如実に示しているように思われてならない。