教養/陶冶と政治
吉永圭著『リバタリアニズムの人間観:ヴィルヘルム・フォン・フンボルトに見るドイツ的教養の法哲学的展開』によせて
大野 達司 
(おおの たつじ・法政大学法学部教授)

 
 人間像、あるいは人格形成は、否定的にとらえられるにせよ、リベラリズムをめぐる論争のように、ひろく実践哲学の争点であり、また思想理解のうえでも鍵となる。さまざまな例があるなか、かつて価値相対主義が席巻していた二〇世紀前半に世界観の相克、神々の争いといわれたものも、それを典型的に示している。そこには法や政治にとどまらない広がりや深さがあり、全人格的な教養/陶冶から科学/学問への転換における教育や大学の社会的役割への懐疑は、理論やその方法の「客観性」の意味の問い直しにおよんだが、その裏面には自我や人格の核心部分の動揺があった。つまり、解体した教養市民層に代わる新たな人間像、確立した世界観への渇望でもある。たとえば、ヴェーバーは近代における「専門人」をなお擁護し、講壇禁欲を説いたが、それに対するゲオルゲ派を中心とした若い世代の不満は、生の意味を求める全体的人格への希求に発していた。
本書の中心人物W・フォン・フンボルトは、最近その言語哲学などを通じて新人文主義再考の文脈にも属し、少なからず再び注目されている。思想史的文脈では、フンボルトはドイツ初期自由主義の代表的人物として、「教養市民層の時代」の始点に立ち、「非政治的」な思想家の一群に位置づけられる。一方、英米のリベラリズムの文脈では、J・S・ミルが「自由論」の冒頭でその先駆者としたほか、「現代リバタリアニズムの古典」とも評価される。著者はこのような思想圏でのフンボルトの現代的意義を、思想史的にも確定したうえで、「フンボルトの失敗を真摯に検討し、それを克服する道を探ることは同時に確固たる人間観なきリバタリアニズムの問題をも乗り越えることになる」(四四頁)と、本書の課題を定めている。してみると、右のような「自由主義」的近代をめぐる問題も、法思想史や法哲学的論点の流れの中で、フンボルト論と無関係ではないだろう。そこで、ヴァイマル期の法思想におけるフンボルト像を素材としつつ、この連関を一瞥してみたい。
一九世紀的「自由主義」という支配的世界観は、市民階層の社会的威信の低下とともにその座を追われ、新たな世界観の模索、あるいは異なる世界観相互の調整の「理論」的可能性が課題となった。本書がとりあげるシュプランガー、あるいはリットのフンボルト論(二三一頁以下)もそのなかに位置づけられるが、同時代の法思想・政治思想における自由主義的近代に対する全面的再検討では、自由主義は政治理念たりえないと論じ、意志的決定としての政治の契機の欠落を問題視したシュミットの自由主義や議会制批判がよく知られている。ヘラーが人格的決定や責任を回避した法則主義的予定調和というのも同じものであり、フンボルトをこうした北ドイツに特有の自由主義思想圏に位置づけている。しかし、「自由主義者」たちもこうした問題を時代の課題として共有しており、プロイスは「ペリクレス的政治家」フンボルトの非政治性を、彼の思想の内在的帰結ではなく、当時の国家の性格に由来するギリシャ的理想の実現不可能性に帰した。「だが彼はドイツのどこに「デモス」の政治的指導という高度な術を確認できただろうか? 確かに彼の魂は、自由な人格の完全な発展は、個人の領域を超えて共同生活という超個人的なものに入り込まねばならない、国家の働きは力と教養の特性に対立せず、むしろそれらの完成だという真実を感じ取っていた。だがドイツの国家組織にそうした政治的作用の可能な出発点が何かあっただろうか? かくして彼もまた、そしてまさに彼は最高の人格財を国家「における」自由ではなく、国家「からの」自由に求めざるをえなかったのだ。」(Preuss, Das deutsche Volk und die Politik, 1915)
さらにケルゼンは、ヘラーの指摘するフンボルトと自然主義的世界観の共属性から、本書で取り上げられているグーチのように(二五〇頁)、アナーキズムに至る危険性を強調していた。「自然科学に特有の精神的方向の勃興は自由主義的世界観と手を携えている。……より高い価値に位置するものに、一九世紀の個人主義的?自然科学的な精神生活がこの流れとして現れた。それはダーウィンとシュティルナーを経てニーチェに注ぎ込む。いわば、それが論理的に発展するとアナーキズムに変質する自由主義と、選抜、淘汰、適応の仮説に依拠し、超人の理想にまで高められた進化論が、ここに合流する。それ自身の発展を通じて解体してしまうのが、自由主義的世界観の政治的綱領の特質である。そもそも積極的な目標に向けられず、基本的に否定的に、個人に置かれた国家的制約に敵対するため、それは理の必然として結局のところおよそ国家の否定に行き着かざるをえない。フンボルトのいう「必要悪」からニーチェのいう「不要な偶像神まで」はごく小さな一歩にすぎない。」(Kelsen, Politische Weltanschauung und Erziehung, 1913)
ところでこうしたフンボルト理解を介してどのような人間像が対置されるのかも、本書との関係では有意味である。著者は、非国家的共同体における美的人格のフンボルト的陶冶は、貴族主義的・楽観的、あるいは観念的であり、その理想の実現には、非常事態(国家の過干渉?)において、自己の善の追求のために「政治」に向かう、「緩やかな程度の政治志向性」(二五二頁以下)が必要だという。そのリバタリアンの社会モデルを支える人間観(第五章)では、「理性的判断能力」や「問題解決に向かおうとする意思」を備えた「公的秩序を担いうる人材の養成」が課題とされる。一方ケルゼンは、民主主義を支える「価値相対主義的人格」の育成を重視し、党派的評価に社会科学的教育の意義を対置した。それは理性的判断能力と問題解決意思の養成ともとらえることができる。そもそも価値相対主義が民主制の基礎となりうるかどうかは論争的だが、リバタリアンは集合的決定の余地を切り詰めるため、価値の相対性→寛容→民主制というような論証の流れをたどる必要はない。「党派的評価」は、一面リバタリアンの忌避する政治だが、各自の追求する「善」は元来党派的なものだろう。著者はこうした人材の性格を、善ではなく「正としての人間観」(五二頁、二八一頁)だとする。各人の善の追求システムを護るために必要とされる人格・人間観は、このシステムのとらえ方と相関する違いが反映している(はずだ)が、すでに紙幅も尽きたので、この点は本書とともに考えてみたいと思う


!すべての文章の無断転載を禁止します。!