- 「アジア的価値(Asian values)」から「アジアの声(Asian voices)」へ
ダニエル・A・ベル著『「アジア的価値」とリベラル・デモクラシー:東洋と西洋の対話』によせて
|
-
- (いのうえ たつお 東京大学大学院法学政治学研究科教授)
アレクサンドロス(アレクサンダー大王)がマケドニアの王位を継ぐ前、彼の母に飽いた父王フィリッポスが別の若い女と結婚した。ある宴席で、この女の叔父とアレクサンドロスとの王位継承問題をめぐるいさかいが引き金となって、フィリッポスが息子に剣を抜いたが、怒りと酔いで転んでしまった。このときアレクサンドロスは父を嘲笑して、「諸君、この方はヨーロッパからアジアへ渡る準備をなさっているが、椅子から椅子をまたぎ越す間にお転びになるとは」と言ったという(村川堅太郎編『プルタルコス英雄伝』(中)筑摩書房、一九九六年、一七〜一八頁参照)。
後に暗殺されるフィリッポスに対して、アレクサンドロスはこのとき既に、象徴的な父殺しを遂行していた。「父はギリシャを統一したが、アジアを征服できる器ではない。それをなしうるのは私だけだ」という強烈な自負と決意を宴席に居並ぶ重臣・賓客たちに表明したのである。「転んだ父」に代わって、アレクサンドロスは「アジア」の大国ペルシアのダレイオス三世を大敗させ、さらにインドのパンジャブまで遠征したところで進軍を断念した。彼のアジア征服の野望の完遂は、近代のヨーロッパ列強によるアジアの植民地化に待たねばならなかった。しかし、「ローマの平和」の時代を生きたプルタルコスがアレクサンドロスの伝記の中で、象徴的な父殺しという「主体確立」の物語に、「アジア」の征服者としての「ヨーロッパ」のアイデンティティの確立を重ねあわせたとき、近代のオリエンタリズムの構図は既にほぼ完成されていた。
オリエンタリズムにおいて、ヨーロッパとアジアは支配の主体と客体として対置されるだけではない。ヨーロッパという主体のアイデンティティそのものがアジアとの本質主義的差異化によって構築され、ヨーロッパのアイデンティティの純化と聖化のためにアジアの「他性」が創出されるのである。「理性」対「迷妄」、「自由」対「専制」、「進歩」対「停滞」など様々な対置図式が、ヨーロッパとアジアの文明的・文化的差異化のために動員されてきた。アレクサンドロスの自己神格化的な「権力への意志」も、「東方的専制」からの感化であり、古代ギリシャに由来するヨーロッパの「本質」たる自由の気概とは異質な「アジア的他性」の不純物であるとする歴史記述の紋切り型が、プルタルコス以来踏襲されてきたのである。
オリエンタリズムの根強い支配力は、欧米中心主義の克服をめざす人々がまさにそれに囚われてきたことに示されている。アジアのめざましい経済発展を背景に一九八〇年代から一九九〇年代にかけて喧伝された「アジア的価値」論は、欧米とアジアとの二項対立的な文明的・文化的本質規定を、その評価的意義を反転させながらも認知枠組としてそのまま受容し、アジアの内的多様性の隠蔽抑圧と、自己の負の遺産を不純物として「アジア的本質」の内に不法投棄する欧米社会の自己聖化に加担した。他方、ポストモダン、ローティのネオ・プラグマティズム、ロールズの政治的リベラリズムへの転向など、欧米の哲学思想の世界において近年顕著になってきた脱哲学的・歴史的文脈主義の諸潮流も、欧米的価値の偶発性を承認して非欧米世界に対する文化的帝国主義を批判するというその表面的な謙譲性・寛容性の裏で、人権や民主主義という価値を自らの歴史や文化の内に血肉化したものとする虚構によって、これらの価値を蹂躙する自己の現実を隠蔽美化するというオリエンタリズムの自己聖化戦略を貫徹している(アジア的価値論と欧米の脱哲学的・歴史的文脈主義のオリエンタリズム的同根性に対する批判については、拙著『普遍の再生』岩波書店、二〇〇三年、第二章、第七章参照)。
この度訳出されたダニエル・A・ベルの著書は、オリエンタリズムに支配された「アジア的価値」のステロタイプに回収されない現実の「アジアの声」に耳を傾け、欧米現代思想が見せる「脱哲学的寛容」の「おためごかし」と慇懃無礼とを超えた真の敬意と内在的関心をもって、この声に誠実に応答する対話を遂行しようとする試みである。西暦二〇〇〇年にプリンストン大学出版部から原著が刊行されたとき、その裏表紙の推奨文(endorsement)を寄せさせていただいた者の一人として、この邦訳の刊行を心から喜び、日本の読書人諸氏に声を大にして本書を推薦したい。特に次の二つの点において本書は注目に値する。
第一に、シンガポール、香港の諸大学で長く教鞭を執り中国人女性弁護士を妻とする著者は、自らの生活経験に根ざした豊富な例証により、アジア諸社会の実情についての正確な「局地的知識(local knowledge)」がアジアにおける人権と民主主義の問題を考察する上で決定的な重要性をもつことを示し、かかる局所的知識を欠いてなされる欧米のアジア諸社会に対する超越的な断罪・干渉に鋭い批判のメスを入れている。(我々日本人も少なからずもっている他のアジア社会に対する誤解・偏見も本書により是正されるだろう。)その上で、シンガポールや中国などアジアの権威主義的体制に対しては、局所的知識を踏まえた内在的批判がより実効的であり、この地域における人権と民主主義の発展を促進する力をもつことを強調している。
第二に、本書は、自分を変えずに他者を変えようとする欧米人権外交の独善性や、それを歴史的文脈主義の視点から批判する欧米の知識人も陥る文脈主義的自己絶対化(例えば、「我々の生活形式の正当化はそれが我々の生活形式であることだ」とするジョン・グレイのポスト・リベラリズムの倨傲)を超えて、欧米人自身がアジアの人々との対話を通じて自己変容する可能性を引き受けるという深い次元における他者への精神の開放性、他者を「寛く容れる」という原義にしたがった「寛容」のあり方を呈示している。一九九六年以来、東京、香港、シンガポール、ニューヨークと様々な地で、ベルと酒食を共にしながらの対話による交流??まさにconviviality(宴)としての我が共生理念の実践??を重ねてきた私としては、これが著者の人間的個性に根ざす美徳でもあるという自らの証言をここに付け加えておきたい。
共同体論の政治哲学を擁護する著者ベルに対して、リベラルを自任する私としては、もちろん批判的留保を種々もっている。しかし、それを展開するのは別の機会にしよう。ここでは、上に見たような勝義における寛容精神を示している点で、本書における著者ベルの立場は根本的にリベラルであると、「我田引水」的な総括をして筆を擱きたい。本書の対話篇の主役デモが頻用する表現を借りて著者に一言断っておこう。ダニエル、間違っていたら訂正してほしいんだけど。
-
-
-
-
-
|
|