現代的課題とプラトンの政治哲学
R・マオラー著『プラトンの政治哲学――政治的倫理学に関する歴史的・体系的考察』
によせて
矢内 光一 
(やない こういち 横浜国立大学副学長・哲学)

 このたび、ラインハルト・マオラー『プラトンの政治哲学』の永井健晴氏による翻訳を読む機会を得た。同書は、『政治家』、『法律』などにも目を配りながら、『国家』を中心にしてプラトンの政治思想・政治哲学を論じたものである(原題を直訳すれば『プラトンの『国家』と民主制――政治的倫理学に関する歴史的・体系的考察』)。プラトンの政治思想については、ポパーの『開かれた社会とその敵』(一九四五年)などに見られるような、プラトンを反民主主義的・全体主義的思想家として批判的にとらえる考え方が第二次世界大戦前夜ころから提示され、そうしたとらえ方をめぐる論争が二十世紀中葉から後半にかけてあった。この論争については、佐々木毅『プラトンと政治』(東京大学出版会、一九八四年)、同『プラトンの呪縛』(講談社、一九九八年)で詳しく論じられている。著者の本研究の契機となったのもこの論争であるが、著者は、ポパーらのとらえ方に与せず、古典学・歴史学の成果を踏まえてプラトンの国家論のもつ意味を時代背景との関連で探るとともに、政治哲学・実践哲学の観点から、プラトンの政治思想を西洋政治思想史全体のなかに位置づけ、その今日的意義を積極的な形で見出そうとしている(因みに同著は、教授資格論文『ポリーテイアーとリヴァイアサン――政治的なものの復権のために』の第一部「プラトンの国家」に当たる)。著者はヘーゲル哲学の思考法と用語を駆使し、また、哲学、政治学、古典学にわたって広範な文献を渉猟しており、同書を日本語に訳す作業は並々ならぬ労苦を伴う。それを敢行された永井氏に敬意を表したい。

同書には様々な特色があり、それらについてここで立ち入ることはできないが、著者の基本的な関心を私なりの受けとめ方にもとづいて纏めれば、それは、一方で、人間はプレオネクシアー(必要以上に得ようとする欲望)と技術による自然支配を著しく進展させてきており、それら自体由々しい問題をひき起こしているが、他方で、民主制における自由と平等が制度的・外形的なものであり、前者の問題の内実に積極的に関わりえない点に政治的に見た近代社会の問題があり、こうした問題状況を打開するための理論と実践の統合的原理として、認識・存在・価値の究極的原理である「善のイデアー」を位置づけ、これを政治的・倫理的に有意義なものとしてとらえなおそうとするところにあるように思われる。

同書が出版されたのは一九七〇年である。その後、東西冷戦構造の終焉、環境問題の深刻化、グローバル化の進展など、世界規模の急速な変化が生じている。こうした変化にあって、人類の存続・人類の未来をどのように思い描くか・どのようなヴィジョンをもちうるかが、今日、切実な問題として浮上している。特に環境問題やグローバル化は、人類を文字通り「種」でなく「類」としてとらえ、人類全体に改めて目を向けるコズモポリタン的視点(個々人を、あるポリスの一員としてのポリーテースではなく、コスモス=宇宙・世界をポリスとし、その一員としてのコスモポリーテースととらえる)をもち、その視点から人類の営みと文明のあり方を問いなおすことをわれわれに強く迫っている。

マオラーの著書を読みながら感じさせられたのは、特に環境問題とそれのもつ難しさである。マオラー自身は環境問題に同著で一言も触れていない。しかし、一方で、肉体的・物質的欲望とその充足の拡大、科学技術と産業化社会の急速な進展をにらみ、他方で、政治がそれらにどのように関わるのかを考えるとき、先に述べたマオラーの基本的な関心と思われることが環境問題と大きく重なってくる。

環境問題は、地球環境に関する自然科学的認識の進展、科学技術的方法の開発、省エネや環境教育の普及など、様々な角度から総合的にその解決に向けて取り組む必要がある。しかし、とりわけ重要なのは経済の視点である。特に、地球規模での経済成長をどのようにとらえ、それを人類の存続や未来社会のあり方とどのように関係付けるかが問題である。「持続可能な発展・開発」が環境問題のキーワードとなっている所以もそこにある。環境問題は、地球という自然環境のなかで人間が行動し人類が活動することによって自然環境が影響を受け、人類の生存する条件・基盤としての自然環境が悪化するという形で生じている。だが、より具体的に見れば、人間の行動は生産・消費という経済的行動として経済活動に組み込まれ、人類の活動は経済活動として自然環境に影響をもたらしており、人類の経済活動が環境問題の根底を形作っている。そして、苦痛を避け快楽を求める人間にとって経済的豊かさ・便利さ・快適さの追求は自然なことであり、人類の経済活動はそうした人間の自然・本性にもとづいて拡大・成長を続け、環境を悪化させている。

このように環境問題の中心に経済の問題があり、人類の経済活動が人間の自然・本性にもとづくものであるととらえるとき、政治はこれらにどのように関わりうるのだろうか。民主制の確立と自由権・参政権・社会権の進展を中心とした近代の政治原理は基本的に国家の枠を念頭に置いたものである。民主制と選挙制度について見れば、経済的豊かさ・生活水準の向上が人間の自然・本性にもとづくものである以上、その追求は自然であり、それを十分に果たしえない政権は崩壊し、それに反する政策を掲げる政党が政権を取ることは困難である。国家は国民の幸せを目指して経済的繁栄を追求し、さらに、経済の市場原理は国家の枠を超えてはたらくため、経済的繁栄をめぐって国家は互いにしのぎを削り、その競争は地球規模でなされることになる。このように見ると、近代の政治原理は国家の枠を超えた環境問題を扱うには十分でなく、新たな原理が必要になる。それは、一方で近代の政治原理を踏まえつつも、人類に共通な善を人類の存続と地球社会という観点から改めてとらえなおし、人類がみずからの営みを秩序立てる方向で追究されなければならない。その追究は、政治・経済・倫理の問題領域を総合する形でなされる必要があるが、倫理の領域では快楽主義的人間観の検討が重要であり、その際、理性主義・反快楽主義に立つプラトンの哲学は貴重な手がかりとなる。マオラーの著書は近代の政治原理では扱い切れない問題を西洋政治哲学の原点に位置するプラトンにまで立ち返って提起しており、刺激的な内容となっている。


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