- 幸福は、理解に富んでいる(中原中也『山羊の歌』)
佐藤一郎著『個と無限――スピノザ雑考――』によせて
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- 村上勝三
- (むらかみ かつぞ 東洋大学教授/哲学)
少し柔らかく考えてみよう。職場でも、町中でも、電車の中でも、感情的な人がいて、困った思いをする。エゴイスト。ちょっと鞄がぶつかっただけで、憎悪の眼差しを蒙る。長年の同僚が或る日を境に口をきかなくなり、挨拶をしても無視をする。或る人はちょっと注意をすると意地悪で応える。自分が他人のために少しでも労力を払うとなると大騒ぎをして、権利擁護を求める。果たさなければならない義務に対しては、知らぬ顔をする。強く頼むとその日には別の用事があると逃げる。嘘をついても平気である。社会の現状について哲学的な物言いをする。少し具体的に尋ねてみると、自分の属する階層の保全しか考えていない。沢山の難しいことを知っている、あるいは、知っていると思っている。しかし、他人の役に立とうなどとは思ってもいない。他人を人として尊重する技術をもっていない。結局のところ、一言で云えば、利己主義者、エゴイスト。いくらかそういう人がいても仕方がない。でも、多すぎる。社会を動かすような人たちのなかに多すぎる。利己主義と個人主義の隔たりは大きい。個人主義は共同体の中で、共同体の利害よりも成員一人一人の利害を重視する立場である。利己主義者は自分の利害で他人の利害を測る。単なる自分勝手である。
他人に対して感情的に振る舞ってよい場合もある。その方が親密になれる場合もある。仲のよい間柄では率直な感情の表白が円滑さを増大する。感情的振る舞いのよしあしは一律には定まらない。或る人の喜びの感情が周囲を励ますこともある。また、妬みを生み出すこともある。或る人の悲嘆にくれた姿が、近くの者をどうしようもなく憂鬱にする場合もあれば、かえって奮い立つ力を与える場合もある。同じ感情の発露であっても、場合によって周囲に与える影響は異なる。しかし、それだけではない。誰が悲しんでいるのか、誰が喜んでいるのか。感情の主体によって感情の果たす役割は異なる。あの人が怒っているのだから、近寄らないようにしよう。あの人が怒っているのだからよっぽどのことがあったのだろう。誰がその感情を抱いているのか。周囲に与える影響が異なる。誰が、いつ、どのような場合に、そのことが感情の受け取り方に大きな影響を与える。行為の評価についてもほぼ同様である。しかし、感情の方が主体への関与の仕方が強く深い。
柔らかくはじめた話しに柔らかい見通しを与えてみよう。感情は或る特定の誰かについて言われる。「或る特定の」というのはその当人の現在の状況だけではなく、その人の生まれてからの歴史が含まれているということを示す。なぜあの人はあのときに涙したのか。その人の子供時代の体験がそのことを説明してくれる場合もある。要するに、感情は或る特定の人について言われるということである。私たちの時代にはこのことが見えにくくなっている。自分を守らなければならない。あなたと私は違う。でも、同じところだってある。そんなことに騙されたらひどい目に遭う。正しいことを言っただけで、いじめられるのだから。でも、でも、私だけが感情の主体ではない。或る特定の人、自分もその一人である、多くの場合には他人がそうであるような人、それが感情の主体である。他人の感情の発露をその人の歴史とともに理解するという経験、これが私たちの利己主義的傾向を少し弱めてくれる。そして私たちの感情の制御を少し強いものにしてくれる。それはまた幸せに近づくことでもあろう。
一七世紀の哲学者たち、スピノザもデカルトもこのことに多くの力を注いだ。スピノザの『エティカ』、デカルトの『情念論』は他人と自分とを等分に見ながら感情の効用と抑制の仕方を教える。哲学をすることがその人のよく生きることと同じであった時代の思索である。佐藤一郎によれば、スピノザにおいて「至福と正義は」「よく生きること(bene vivere)というひとつのあり方として、自由の人の、言い換えれば知者(sapiens)の生において一致する」(一六三頁)。私たちの時代はこの「知者」を見失っている。知っていればいいというものではない。知者の不在と、感情を哲学的に論じる術がなくなっていることとは、軌を一にするように思われる。スピノザは『エティカ』「第三部」「感情の定義六」で「愛」を次のように定義している。「愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである」、と。彼によれば「絶対的に無限なもの」を知的に愛することに「平安acquiescentia」と幸福は存する。幸福は理解のもとに得られる。「愛」は外部に開かれている。このこと自体はアリストテレスの『弁論術』「第二巻第四章」における「愛」の定義以来変わってはいない。「愛」は外部へと理解を拡張することを含んでいる。スピノザもデカルトも、古代と現代との中間に位置し、古代の智恵を現代に伝えている。それだけではない。一七世紀の哲学者たちは「愛」を個々人のこととして個々人の身体との係わりのなかで論じている。
そもそも感情とは個々人が外に向かって開かれていることの証拠である。外部から身体を介して蒙るものである。蒙るという受動性のゆえにそれを制御する意志の働きが個々人の身心の安定に欠かすことができない。外部の原因に発する悪意のこもった感情を蒙って、それを制御しかねて心と身体のバランスを崩す。それをその当人の心の弱さに還元してはならない。外部にそのような原因がなかったならば、身心のバランスも保たれていたであろう。個々人の感情障害の一因は集団的感情過多という症状でもあろう。私たちが感情的に振る舞って他人にいやな思いを与えることを少しでも差し控えるのならば、心身症も減少する。スピノザやデカルトの教えから導き出すことのできる柔らかい帰結の一つがこれである。
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