小林 正
(こばやし まさや 千葉大学教授/政治哲学・比較政治)
政治哲学においてリベラル―コミュニタリアン論争は1980年代以来、極めて重要な意味を持っているにも拘らず、日本ではコミュニタリアニズムの紹介はまだ極めて不十分である。論文の形では紹介も現れており翻訳は徐々に刊行されつつ(1)あるものの、単著の形で本格的な紹介がなされているものは殆どないから、一般読者はその全貌を知ることが難しい。
法哲学や政治哲学については多くの読者は、日本におけるリベラルの代表的論客・井上達夫氏の一連の著作によってコミュニタリアニズムを知ることが多く、他には刊行された紹介書が少ない状態が続いていた。井上氏の紹介は優れたものであるが、いかんせんリベラルの観点からの説明なので、読者にコミュニタリアニズムの意義や魅力を伝えることには必ずしもならない。
リベラルな論客(やポスト・モダン派)は、コミュニタリアニズム〈全体〉を保守主義的とか「共同体を重視するから個人を抑圧し自由や多様性にとって脅威になる」などと捉えて、一括して批判することが多い。この論点自体は重要だけれども、「現代のコミュニタリアニズム」の主要な論者はこの点に十分な配慮をしていることが多く、このような単純な批判は当てはまらない場合が多い。日本でなされているコミュニタリアニズム批判は、代表的な文献を正確に理解せずに行われていることが多く、要するに偏見に過ぎない場合が殆どなのである。
そこで、筆者は、コミュニタリアニズムに共感する観点からコミュニタリアニズムについて緻密に紹介する著作が是非とも必要だと考えていた。この度刊行される菊池理夫氏の『現代のコミュニタリアニズムと「第三の道」』(風行社)は正にこの要請に応える待望の著作であり、コミュニタリアニズムに関する日本初の本格的紹介書である。
ここでは、マッキンタイア、テイラー、ウォルツァー、サンデル、エツィオーニというように、「現代のコミュニタリアニズム」の代表的論者の議論が手際よく正確に紹介されている。今日のコミュニタリアニズムについて相当包括的な紹介がなされているから、これを読めばその大要が理解できる。また、コミュニタリアニズムの哲学的側面と政治的・政策的側面が双方ともバランスよく取り上げられている。だから、今後コミュニタリアニズムについて考える際には、本書は必ず参照されるべき重要文献となろう。
コミュニタリアニズムについての本格的な紹介書がこれまで存在しなかったということ自体が、その思想的重要性から考えると驚くべき現象である。その理由は、リベラルの偏見の結果というだけではなく、日本における学問の制度や実態、特に政治哲学の貧困という大問題と関連すると思っている。(従来の)国立大学をはじめ、多くの大学では、政治学において、政治思想史ないし政治学史の講義やゼミはあっても、政治哲学についての講義やゼミがあるところは極めて少ない。他方、政治学が属することの多い法学部においては、法哲学の講義やゼミはしばしば存在する。これを反映して、政治哲学の学会は存在しないが、法哲学には学会が存在し、相当活発な活動を行っている。
この結果、リベラル―コミュニタリアン論争も含めて、近年の政治哲学の主要な議論がこれまでは主として法哲学の研究者によって紹介されてきた。その水準は決して低くはない。しかし、ことコミュニタリアニズムの紹介に関しては、これは偏見を生む原因となってきたと思われる。
なぜならば、リベラルが権利を「正義」として最重要視するのに対して、コミュニタリアンは権利論だけで考えることを批判して、責任や美徳の観念の重要性を主張する。ごく簡単に言えば、リベラルが法的制度を重視するのに対して、コミュニタリアンは道徳的・政治的要素を重視するのである。そこで、法を研究対象の中心とする法哲学の研究者が、権利を中心に据えるリベラリズムに魅力を感じることが多いのは、殆ど必然的な成り行きであり、そこにはある意味では学問的な存在拘束性が存在する。だから、法哲学の研究者によってリベラル―コミュニタリアニズム論争が紹介されれば、リベラルに好意的な論評とコミュニタリアニズムへの批判ないし偏見が強くなるのは、およそ理の当然と思われるのである。
菊池氏は政治思想の研究者であり、政治思想の研究者によってコミュニタリアニズムについて本邦初の緻密な紹介が行われるということには、このような学問的制度の問題点から見れば、よく理解できる力学が働いている。これを契機に、政治哲学全体が活性化することを希望したい。
菊池氏は、本書「あとがき」で、現代のコミュニタリアニズムの主張を「実行可能なユートピア」と考える視点を明らかにしている。筆者自身の表現を用いれば、これは「理想主義的現実主義」に近いであろう。筆者自身も、コミュニタリアニズムは、かつてのマルクス主義の誤謬が明らかになった後で、ユートピア的な理想主義が現実的に目指すべき方向を、「コミュニティー」に手掛かりを求める形で指し示していると考えている。
もっとも、日本における政治哲学として、氏の示している方向と筆者のそれとが完全に一致しているとは言えないかもしれない。菊池氏が第四章で言及しているように、筆者は、戦後日本の代表的自由主義者とされる丸山眞男の思想の中にコミュニタリアニズムないしリパブリカニズムと共通する要素を指摘した(2)。さらにその恩師たる南原繁は、当時の日本における代表的なコミュニタリアンと考えることができるだろう。この点で、筆者は、「南原―丸山」とそこに存在するコミュニタリアニズム的要素を擁護したいと思っている。けれども、丸山が従来の日本の「共同体」の中にいわゆる前近代性を見て、そこから析出される個人の主体的作為を強調したのも事実である。だから、そのような「近代的」思惟と、菊池氏が本書の最後の部分で主張される「可能性の歴史としての」村落共同体や町内会という見方とは、強調点を異にすることは否定し得ない。
ただ、筆者はコミュニタリアニズムを地球的に展開すると共に、それを地域的(ローカル)にも展開することを主張しており、その各々を「地球的(グローバル)コミュニタリアニズム」、「地球域的(グローカル)コミュニタリアニズム」とも呼んでいる。この地域的な側面に関しては菊池氏の主張とも重なる部分もあるだろう。このような共通点と相違点を明確にしつつ、コミュニタリアニズムの新たな思想的展開を図ることが、日本におけるコミュニタリアニズム研究、そして政治哲学全体の発展に寄与するだろうと愚考する次第である。
(1)筆者が翻訳を監修するアミタイ・エツィオーニの『ネクスト』(麗澤大学出版会)も近刊の予定である。
(2)小林正弥編『丸山眞男論――主体的作為、ファシズム、市民社会』(東京大学出版会、2003年)、序章および終章。
|