逆風に抗して非暴力抵抗を
寺島俊穂著『市民的不服従』によせて
石田 雄 
(いしだ たけし 東京大学名誉教授/政治学)
 外に対しイラク派兵、内では有事法制という形で憲法第九条の空洞化を進め、この既成事実に規範を合わせるように明文改憲をめざす政治動向に対して、私達は何ができるだろうか。また改憲を主張する人が非武装などは夢想だというのに対し、どう答えるべきか。

 右の二つの難問に答える有力な手がかりが「市民的不服従」に見出される。選挙で多数を得れば何でもできるという傾向に対し、最後の歯どめを加えるのが「市民的不服従」である。良心あるいは憲法のような上位の法規範に基づいて、非暴力的手段で実定法に自覚的に違反する行為を「市民的不服従」とよぶとすれば、これは政府の不当な政策の強行を阻止する一つの有効な方法である。

 そしてこの方法が有効に機能するならば、外敵が攻めてきた場合同じような非暴力的不服従の手段で市民的防衛をすることができる。その意味で憲法第九条の非武装は、決して実現不可能な空想ではないといえる。

 今回公刊された寺島俊穂『市民的不服従』は右の二つの難問に答える鍵を示す極めて重要な意味をもつ好著である。この本は「市民的不服従の思想と運動」と題する第一部でソロー、ガンディおよびM・L・キングさらに在日外国人指紋押捺拒否の思想と運動をとりあげ、「戦争廃絶の論理」と題する第二部では兵役拒否の思想からはじめ、非暴力による市民的防衛の概念を明らかにすることによって、憲法第九条は防衛を放棄したものではなく非暴力防衛により戦争の廃絶をめざすものであることを明示する。

 著者の力点は「市民的不服従の概念についての議論よりも、むしろその歴史的事例に主眼を置くこと」にあり、「政治的事象のなかから規範的理念を抽出していくように努め」ている。これは「市民的不服従」という困難な課題にとりくむのに適合的な接近といえる。各章は、それぞれ別の機会に発表されたものであるから、著者は「はじめに」で全体の構成と各章の位置づけを試みている。ただ第一部と第二部の関連についてもう少し具体的な説明があればなおよかったと惜しまれる。

 例えば「市民的不服従」の目標として反差別と反戦があるが、この二つの目標をどう関連させるかは、1968年暗殺される直前までキングをなやませた難問であった。というのはキングがヴェトナム反戦を言いはじめたのに対して、それは反差別の運動のさまたげになるという反対が強かったからである。67年リバーサイド教会での説教で彼は反差別と反戦との関連について次のように述べる。

 「われわれはアメリカ社会によってハンディを科された黒人の若者たちを、8000マイル離れた東南アジアで自由を守るためという大義名分の下に送り出しているが、その自由は彼らが育ったジョージア州南西部やイースト・ハーレムでは保証されていない」と。そして「今日の世界で最も強大な暴力の提供者である私の政府に対してはっきりものを言わずして、ゲットーに住む抑圧された人々の暴力に対して〔非難の〕声を上げることなど絶対できない」という(クレイボーン・カーソン、クリス・シェパード編『私には夢がある――M・L・キング説教・講演集』2003年、新教出版社、162――63頁)。「東南アジア」を中東と、「ゲットー」をイラクと読みかえれば、この発言はそのまま今日の状況に適用することができる。

 日本でも、キングのようなカリスマ的指導者はいなかったが、反差別と反戦を結びつけた非暴力直接行動の事例として北富士で1960年から続けられている忍草母の会の闘争がある。「土百姓と考え一方的に決定したことにそのまま服従せよという人間無視」の入会権否定に反対し「百姓も役人同様人間であること」を認めさせる運動を続ける中で、「再びこの原をアジア侵略の基地にしてはならない」と射撃演習に反対して弾着地点に座り込み、米兵にむけて反戦放送をするというような闘争である(引用は北富士連絡会『北富士闘争』より――石田「非暴力直接行動への政治学的接近」石田『平和と変革の論理』1973年、れんが書房、所収、71頁など参照)。

 この本で明確に示された「市民的不服従」の意味は、一方では右にあげたような過去の多くの事例を研究することによってより深く理解される必要があると同時に、他方では今日的状況の特徴とどのように関連づけるかということが今後の課題となるだろう。今日的状況の特徴といったのは、今日の暴力的紛争が一方では国民国家の枠をこえて超大国への一極集中の傾向を示すと同時に、他方では一国内の民族的紛争としてより小範囲の日常的レベルに下降していることを指している。

 このような特徴を持つ今日的状況においては、暴力的紛争を阻止しようとする行動は、しばしば一つの国民国家の枠にとらわれない形で示される。米国のイラク侵攻の直前2月15日に地球を一周する形で展開された1000万ともいわれた市民達による反戦デモは明らかに国境をこえた運動であった。他方日本からも参加者を出している非暴力平和隊のスリランカでの活動は、国内における民族紛争を解決するための国際的な非暴力主義的支援である。

 これらの活動は、一国の実定法への自覚的違反を目的とするものではないから「市民的不服従」とは呼ばれないが、暴力的紛争解決のための非暴力直接行動として注目すべきものである。「市民的不服従」の定義にとらわれることなく、これらの活動と狭義の「市民的不服従」との関連を検討すべきであろう。

 なお、今日的状況において国境の持つ意味が右の二つの面で相対的に低下しているにもかかわらず、国際政治においては、国連が主権国家を単位とする組織であることにも示されているように、国家の占める比重はまだ決定的である。したがって、今日の地球上での暴力紛争を解決し、戦争を廃絶するためには、それぞれの個人が属する国家の政策を変えることから始めるより外はない。

 その意味で実定法に違反してでも戦争に加担する政策を阻止する「市民的不服従」の重要性は決して減少してはいない。ただ合法か非合法かの境界は、反戦ビラの配布が住居侵入という形で逮捕の口実とされるように、しばしば行政の解釈によって決定される。したがって重要なのはこの境界をこえるかどうかではなく、日常的に市民が出来る多様な活動を最も有効な形でくみあわせる努力を積み重ねていくことである



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