アメリカの反ユダヤ主義をめぐって
徳永 恂 
(とくなが まこと 大阪国際大学教授・大阪大学名誉教授
/哲学・社会思想史)

 ホルクハイマーとアドルノの共著として知られる『啓蒙の弁証法』(拙訳・岩波書店)の中に「反ユダヤ主義の諸要素――啓蒙の限界」という一章がある。啓蒙という言葉には、大衆の無智を直すという教育的な意味も含まれているが、本来、ドイツ語では、Aufklärung、英語ではEnlightenmentで、闇に光がさしそめる、明るくなることを指し、人類史の中で理性が圧政や宗教的ドグマに打ちかっていく過程、つまり文明化の過程を意味する。シビリゼイションを文明と訳す慣習が先に定着しているのでなければ、Aufklärungをこそ文明化と訳すのにふさわしいと私は考えている。ホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』は、こういう文明化の過程としての啓蒙が、現代に至って、その逆のもの、つまり野蛮へと転化していった所以を、起源にさかのぼって深く省察し原理にさかのぼって鋭く批判したものである。その(断片的補論を除いた)最終章に、啓蒙の限界という副題を持った「反ユダヤ主義の諸要素」が置かれている。

 最初この書を手にした時、私は著者たちが、アウシュヴィッツに極まるナチスの反ユダヤ主義のうちに、西欧文明=啓蒙の限界を見ようとしているのだと思っていた。大筋ではむろんそれは間違いではないのだが、どうも少し勝手がちがう。たとえば「海の向うでは」という記述がある。はじめ私はそれをアメリカのことだと思っていたのだが、逆だった。それはヨーロッパのことを指しているのである。つまり著者たちは一九四〇年代前半に、亡命先のアメリカでこの本を執筆していたので、「海の向う」とは、大西洋の彼方のヨーロッパを指しているのであり、しかも著者たちは、──一部の追加部分を除いて──このテーマを、アウシュヴィッツ以前に、まだ充分にはホロコーストの実態が知られるより前に書いているのである。この執筆の時期と場所を考慮にいれておくことは重要であろう。そうでなくても、ユダヤ教とキリスト教の差異・対立についての神学的・宗教史的知識。ミメーシス・投射といった精神分析用語の脚色された転用等々。日本人にとってなじみの薄い行論を理解するのはなかなか困難なのだ。三〇年代までのホルクハイマーは、ユダヤ人をブルジョアないしリベラリズムの側に置き、資本主義批判によってユダヤ人問題を解決するという方向を向いていたので、ショーレムやアレントが憤まんや不快を口にするのも当然と言えよう。四〇年代初頭、発行元をパリからニューヨークに移し、英語で続刊されることになった「社会研究所」の機関誌(Studies of Philosophy and Socialsciencies)は反ユダヤ主義研究プロジェクトを特集し、それには映画の製作まで含まれていたが、資金難のために実現しなかったらしい。ようやく四〇年代半ば、『啓蒙の弁証法』執筆の後、ホルクハイマーはアメリカ・ユダヤ人協会の援助・依嘱を受けて『偏見研究シリーズ』の編さんに当り、そこからマッシングの『破壊のリハーサル』、レーヴェンタールの『欺瞞の予言者』、アドルノとバークレイグループとの共同研究『権威主義的性格』といった、精神分析と社会科学の融合という意味で劃期的な、業績が次ぎつぎに生み出されていった。これらはいずれも「アメリカにおける潜在的な反ユダヤ主義」の研究をめざすもので、その結果、ナチス・ドイツを頂点とするヨーロッパにおけるほど露骨ではないにしても、アメリカにおいても潜在的には、やはり反ユダヤ的意識と無意識が、根強いことを示したのだった。学説史上は、方法論的に新しい実験的研究という面が評価されているようだが、アメリカにおける反ユダヤ主義の存在に、まず注目すべきであろう。

 もともとコロンブスのアメリカ到達に至る西廻り航海が行われた一四九二年は、ヨーロッパで最後まで残っていたユダヤ人が(ポルトガルは数年遅れるが)最終的にスペインを追放された年だった。その故もあって、彼の航海の動機も、カトリックの布教のためという表向きの顔の陰に、ユダヤ人の安住の地を求めようとする秘められた動機があったのではないか、という説があるほどである。(これについては拙著『ヴェニスのゲットーにて』みすず書房、を参照されたい。)一五世紀末に西欧を追われたユダヤ人たちの離散(ディアスポラ)の波は、北アフリカ沿岸や中欧低地帯を通って一度は東欧へ流れるものの、ロシアやドイツでの相継ぐ迫害によって、ふたたび西へ、大西洋を越えてアメリカへと逆流する。一九四八年のイスラエル建国に伴う流れを別にすれば、世界各地からアメリカへ向うユダヤ人の亡命・移住の流れは、一時期の移民制限にもかかわらず陸続と絶えることなく、今日では全世界のユダヤ人口一三〇〇万人のうち半数近くはアメリカに集中し、アメリカはイスラエル本国をしのぐ、最大のユダヤ人国となっている。宗教的には正統派・改革派・保守派等さまざまのセクトに分れているとはいえ、おしなべて成功した中・上層の社会的地位にある者が多く、政治的・経済的にいんぜんたる勢力を持つと言われる。しかしそれだけにこういう優者ユダヤ人への反感も強く、かつて他の国にあったような露骨な制限立法や非道な迫害はないにせよ、有色人種との微妙な三角関係を含め、反ユダヤ感情はあとを絶つことはない。この辺の事情は、アメリカにおけるユダヤ系文学・映画等で広く扱われているが、佐藤唯行『アメリカのユダヤ人迫害史』(集英社新書)など、日本の歴史家による研究をつうじて概観することができる。

 今度風行社から刊行されるベンダースキー『ユダヤ人の脅威──アメリカ軍の反ユダヤ主義』は、アメリカ軍人たちの対ユダヤ感情を、詳細を極めた調査研究によって明らかにした労作であり、かつてのアドルノらの『権威主義的性格』や、スタウファーの『アメリカン・ソールジャー』に匹敵する社会科学的研究の大著と言えよう。しかしユダヤ人問題を扱った書物は、<反>ユダヤか<親>ユダヤか、どちらかの着色を免れないものが多く、その点カール・シュミットの流れを汲むと言われる著者がどういう価値視点をとっているか、読者は慎重に見極める必要があろう。



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