篠田 英朗
(しのだ ひであき 広島大学平和科学研究センター助手)
戦争とは、人間の生死を分ける極限状態である。それは通常われわれが知的議論を行っている場所からは、かけ離れた世界の出来事であるだろう。あるいは知的営みに携わる者がなすべきなのは、冷徹な理性を持って、絶えず戦争あるいは戦争を行う者を批判し続けることなのかもしれない。
しかし現実世界で起こり続けている戦争という現象を、思想的営みそれ自体の対極に位置づけるような態度は、もちろん間違っている。人間が自らの生命を賭けて武器をとり、同じように生命を賭けている他者と向き合うという状態は、思想的な契機なくしては想定できない。たとえどんなに無知で自己表現力を欠いていても、戦争に携わる者が、また強いられて戦争状態に陥った者が、全く思想的ではないなどという状況は、私には想像できない。戦争という状態において人間が、自己に対して、他者に対して、そして外的世界に対して、何ら反省的な視線を送らないなどということを、私は信じない。
一九九九年のNATO空爆に至るコソボ紛争に対するM・イグナティエフの鋭敏な観察は、戦争が依然として一つの思想的問題であることを、痛切に思い出させてくれる。戦争の「ヴァーチャル」化を指摘しているからといって、もちろんイグナティエフは現代戦争の「ポストモダン」的性格などを軽やかに表現したいわけではない。イグナティエフは戦争の中で、あるいは戦争を取り巻く状況の中で、生きる「他者」たちの息づかいを捉えようと、歩き、聞き、語り、書き、読み、そして思索し続ける。NATOの空爆がヴァーチャル化された戦争であったと厳しい口調で述べるとき、彼は手を伸ばしても簡単には届かない「他者」との覆い難い距離に、苛立っているように見える。
戦争のヴァーチャル化によって危機に陥るのは、抽象的な意味での平和主義ではない。ヴァーチャル化された戦争の犠牲になるのは、人間の生死を分ける極限状態で問われる思想それ自体である。戦争をヴァーチャル化されたイメージでしか捉えることができなくなったとき、われわれが失うのは、冷厳な現実を見通して生きていくための、思想の深さである。安易な軍事力至上主義とともに、硬直した平和主義もまた、イグナティエフの苛立ちの対象となる。「他者」への関心を問い詰めようとする彼にとって、戦争と平和は必ずしも対立項ではない。問題なのは、われわれの「他者」への関心の度合いなのである。
イグナティエフは、NATOの「介入」を支持した。なぜなら彼の「他者」への関心が 、「介入」の正当性を強く確信させるからであった。集団殺害、レイプ、強制移住などによる民族浄化が進行中の状況において、政策的な代案を提示しないまま「介入」への態度を未決定にとどめておくことは、彼の倫理観に反することなのであった。しかしイグナティエフが『ヴァーチャル・ウォー』において読者に示すのは、「介入」を支持した彼の立場の妥当性などではない。驚くべきほど、彼は読者を説得することに無関心である。むしろ彼が行うのは、自らがとった立場の意味を繰り返し問い直し続けることである。
イグナティエフが本当に示したいのは、「他者」から離れた場所で安穏とした日常生活を送るわれわれには容易には想像できない過酷な現実がこの世界にはあるということであり、そのような状況で困難な態度表明を行うことに躊躇せず生きる様々な人々がいるということである。そしてイグナティエフは、彼らへの関心を消し去ることのないように、自らの思索の跡を残し続けたいのである。アメリカ外交を指導するホルブルック、NATOヨーロッパ連合軍最高司令官クラーク、戦犯法廷主席検事アーバー、英国貴族院議員スキデルスキー、そして「ユーゴスラビア人」ジラス、という主要「登場人物」たちは、全く異なる立場で、全く異なる視線を、コソボ紛争に送り続けた人々である。しかし彼らが共有しているのは「他者」への多大な関心であり、イグナティエフの思索をさらに一層かきたてる、現実世界への情熱的な関与である。たとえば第三章のイグナティエフとスキデルスキーとの間の往復書簡、そして第六章のイグナティエフとジラスとの間の動揺する友情を媒介にした会話は、著者であるイグナティエフの立場をこえた刺激を読者に与える。読者はそれらの議論にふれることによって、あたかもソクラテスとソフィストたちの対話にふれたときのように、様々な哲学的な問いを持って、現代世界の抱える問題に思想的に関与していけるようになるのである。
「介入」を支持したイグナティエフが軍事行動終結後にあらためて問い直したのは、果たして実際に起こった「介入」が、「他者」への関心を満たすものであったかどうかである。その過程で「介入」を支持したはずのイグナティエフは、「介入」を行った西側諸国の政府への批判に行き着く。なぜなら戦争のヴァーチャル化によって隠された不適切な介入の方法――自国兵士に犠牲者を出さないように精密誘導兵器による空爆に頼りきるやり方――は、「他者」への関心から「介入」を支持するイグナティエフを満足させるものでは全くなかったからである。
しかし読者はさらに「自国兵士」を、「他者」とは区別された「自己」の一部としてみなすジャーナリストであるイグナティエフを前にして、さらに戦争における「他者」と「自己」の問題を問い直し続けないわけにはいかないだろう。われわれは必ずしもイグナティエフの立場を支持する必要はない。しかし「他者」への関心にかきたてられた彼の真摯な問いかけは、受け止めていかなければならないはずである。
イグナティエフは今、人道的介入の観点から、あるいは「他者」への関心から、新たなイラクへの戦争に賛同している。彼は現ブッシュ政権を賞賛するわけではないが、しかしアメリカの軍事力が持つ可能性自体を否定しているわけでもない。われわれはそのようなイグナティエフに対して、どのような思想を提示すべきなのだろうか?
『ヴァーチャル・ウォー』は、終わってしまった戦争の単なる批判的回顧の書ではない。来るべき問題に立ち向かう際の、われわれの思想の強度を問い直す書である。
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