ヘルマン・ヘラーの市民的「実存」と国家学
今井 弘道 
(いまい ひろみち 北海道大学教授)

1.W・シュルフターにいわせれば、ワイマールの国家学者ヘルマン・ヘラーの国家学の核心には、「西洋の文化史的発展」論がある(今井訳『社会的法治国家への決断』〔風行社 一九九一〕参照)。それに照らして、ヘラーは、「人間的生を現代において遍く支配している内的な矛盾」の「経験」を、「近代的意識」を規定している基礎的な経験と見ていた。
 ヘラーは、その「経験」がもたらす「緊張関係」を「解消」することなく「耐え抜く」べきだ。そこに「不安を抱える悲劇的な存在者」としての現代人の宿命的課題がある、と考えていた。シュルフターは、この点からヘラーの国家学の重要な側面が説明可能となる、と考えている。国家学はこの人間存在のあり方と表裏一体の関係にある、というわけだ。
 現代ヴェーバー研究の大家であるシュルフターが一九六八年に公刊した博士論文で示したこのようなヘラー解釈は、市民論に即して、一九世紀末以降のドイツの国家学/法哲学を、ナチスに追われながら国家学の構築を急ぎ、心臓発作で夭折したヘラーによって一応の完成にもたらされたものとして総括しようとする角度から行われている。
 私がこの点に着目するのは、近代の国家学の地平は、かなりのところヘラーに即して確定可能ではないか、と考えているからである。そうであるなら、その地平を了解することは、主権国家の終焉と市民の時代を眼前にしつつある現代のわれわれにとっても、はなはだ刺激的な観点だといいうるであろう。このような関心から、シュルフターのヘラー論に依拠しつつ、事態を一瞥してみたい。

2.現代人は「不安を抱える悲劇的な存在者」であるが、その所以は「理性と現実との宥和不可能性」の「経験」にある。その「経験」をヘラーは、西洋近代のキリスト教文化から生じた「自律的存在としての人間という自己理解」から生じるもの、と考えていた。
 キリスト教は、「神の愛の王国という共同体理想」を基礎に、「個々人の魂」にこそ「無限の本質的な価値」があることを教えた。そこに「ラディカルな宗教的個人主義」が成立した。この宗教意識は、地上の権力を相対化したが、宗教改革に続く宗教戦争において深刻な動揺を被った。宗教は「魂」の価値を確証してくれるが、「世俗的安全性」の保障はできない。そこでその役割は国家権力に期待される。こうして、「個々人の魂」のために必要とされる安定を与える国家が、理性原理に従うものとして求められることになった。
 しかし、理性原理に従う国家など欺瞞に他ならないことがすぐに痛感された。理性原理の実定化を目指したフランス革命は、「安全性」の国家権力による保障には権力の自己目的化の危険性が伴うことを明らかにしたのである。
 だが、かの「自己理解」を抱き続ける限り、人は《国家を相対化し「国家からの自由」へと向かう反国家的志操》を放棄しないまま、国家的秩序の中で、「現世主義的な権力肯定か/反現世主義的な権力否定か」の「緊張関係」に耐えつつ、生きていかねばならない。
 このような帰結に至る過程の根柢には、キリスト教が人間の実存に与えた解釈を自分を義務づけるものとして引き受けようとする個々人の「決断」があった。ヘラーの国家学の内には、この「決断」が原理的な仕方で組み込まれている。その点でヘラーは、ヴェーバーと共通の土台に立っている。ところで、この基本的決断を保持しつつ、権力の自己目的化への動向に対処するための方策としては、それを国民自身の統制の下におくという手がある。そこに、《「国家への自由」を担おうとする民主主義的意志》への評価が成立する。その民主主義とて、権力の論理を脱却しうるわけではないのだが……。

 ここに成立する多重的な緊張関係から逃げ出さずそれに耐え抜くこと、ここに近代人にとっての基本的な当為、市民──「外的安全性」に拝跪する「ブルジョア」とは対立する意味での「ビュルガー」──としての実存のありかがある。シュルフターによれば、このような市民的実存理解に即して、ヘラーは、イエリネック以降の国家学を批判的に解体し再構築しようとしたのである。

3.法哲学の根本問題に、「国家的支配の正統性」という問題がある。「悪法は法か」というソクラテス的問題も、不当な権力に対する抵抗権の正当性問題も、この問題に包摂される。この「国家の正統性」問題が、「自律的存在」たるべく決断した人間にとっては、直ちに実存的な意味をもつものとなることは、いうまでもなく明らかであろう。
 人権の核心を「良心の自由」に見、それのプロテスタンティズム起源論を主張したイエリネック以降、国家学は、かの「二極的な緊張関係」とこの「決断」とを軸に展開された。その問題は、ヴェーバーの「宗教社会学」や「支配の社会学」に継承された。その社会学が基本的に以上の意味での「実存」問題を軸にして理解可能なものであることも、あらためていうまでもないであろう。
 ともあれ、法と道徳、権力と良心、遵法と抵抗、正統性と合法性などの対句に象徴される法哲学的な諸問題は、市民的実存の問題を「国家存在」の次元に翻訳したときに成立する問題と見ることができる。このように見ることは、近代的な人間存在の問題を没政治的な自閉的思考回路に陥ることなく展開することを可能にしてくれるであろう。逆に、国家学的問題を「実存」問題を閑却して考える逆の自閉化傾向に対しても、それは有効な批判たりうるであろう。

4.ところで、このようなヘラーの議論の根柢には、現代においてリアリティをもちうる政治的共同体は「国民国家」しかないという不動の前提がある。「法的安定性」のないところでは、神ならざる人間は野獣になるほかないわけだから、「権力」なくしては、かの「二極的な緊張関係」すら成り立たず、「自律的存在としての人間という自己理解」自体が、根本から妥当性を喪失してしまう。このことを前提とした上で、ヘラーは、その「権力」は、国民国家を基体にしたものでしかありえない、と考えているのである。そればかりか、「国民的共同性」を「生」の「最終的な形式」と理解し、あらゆる政治的構想力が立脚するべき究極の基礎と見て、社会的正義が具体化される場もそこ以外にはない、としているのである。
 私は、「法的実存」──「外的安全性」の下で生きるというだけでなく、異なった宗教的/道徳的確信を持つ人とも、寛容の原理に従って共生するという意味をもこの言葉に含めることにしよう──と「道徳的実存」との緊張関係のなかで生きようとする「市民的な実存形式」こそが、現代に対して唯一適合的なものでありうるという議論には、一応の同意を与えてよい。しかも、このような「実存形式」には、単に「キリスト教文化」から生じた「人間の自己理解」にとどまらない、西欧中心主義を越えた意味があると見るべきだろう、と考えている。その「実存形式」のためには、「外的安全性」(=法的安定性)が、従って何らかの権力が必要であることも確かであろう。しかし、それが国民国家でなければならないという議論は、今や問題化していいのではないであろうか。
 しかし、ヘラーは、「国民的共同性」を「生」の「最終的な形式」と理解し、そこから、例えば教育独裁論を斥けながらフィヒテの「文化国民」の原理を受容し、それを社会民主主義の展望──「国民的文化社会主義」の展望──と結びつけようとした。無論、そのような試みは、ワイマール共和国の擁護の立場と内的に関わっている。これとの関係についても多くの興味深いヘラーの思想史的な批判的分析がある。しかし、それはともかく、その点をめぐるヘラーの議論は、現代的リアリティをもちうる政治的共同体は国民国家以外ではありえないという前提をますます強固なものにしていくだけだった。

5.近代の国家存在の地平の克服を課題として意識する以上、われわれは、最も豊かな理論的定式化に即してその地平を了解しておくことが必要であろう。その理論は、ヘラーの以上のような観点を、ヴェーバーとの関連を明確に意識しつつ、より具体的なものとして確定する時に、獲得可能なものとなるのではないか。そのことを確認した上で、われわれは、それを克服するという困難な課題に取り組むのでなければならないであろう。



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