井内 敏夫
(いのうち としお 早稲田大学文学部教授)
本書は、松木先生が静岡大学の西洋史専攻の学生と一緒に授業で訳出されたものが基になっているという。講読は一九九四年度から始まったというから大変なスピードであり、学生たちの苦労がしのばれる。けれども多少ともロシアに関心があれば、彼らは面白く読み進むことができたに違いない。内政と外政、国制・軍制、社会・経済、宗教・文化、民族といった歴史の様々な側面がしっくりと統合的に描かれ、しかも歴史を動かし、歴史を創っていった人間がその欲望と苦悩も含めて生き生きと書き込まれている。年代記や聖者伝は重要な史料であるが、その内容には製作者や製作依頼者の意図が反映している。そうした面に関する史料批判や諸説の披露も随所にちりばめられ、歴史学の基本とともに歴史学がもつ醍醐味も味わわせてくれる。さすがに大家ヴェルナツキーではある。
しかし、彼の叙述にはやはり大ロシア中心主義の傾向が感じられる。原題を『近代黎明期のロシア』とする本書は、一五世紀中葉における「ロシア世界」全体の概況から始まる。続く本論の全八章は二つの部分に分けることができる。前半は一五世紀なかばからほぼ一世紀間の「東ロシア(大ロシア)」が中心となり、後半は一六世紀を通しての「西ロシア(ほぼ現在のベラルーシとウクライナに相当する地域)」に焦点が当てられる。東西ロシアの相互交渉をからめながら、この時代のロシア世界を二つに分けて叙述することはもちろん、双方の「近代の夜明けの時代」を半世紀ほどずらしている意味もよく理解できる。
東の大ロシアには紛れもなくロシア人の国家が存在していたが、西ロシアでは正教の「ロシア人」の大部分は、ポーランドと合同関係にあるカトリックのリトアニアに支配されていた。つまり、大ロシアについてはロシア人の国家の歴史として捉えうる。そして、そこでは、イワン三世とヴァシーリイ三世の治世下でモスクワ大公が独立国家の君主としての威厳を自覚し確立するとともに、大ロシアのほぼ全域を統合した。正教ロシア帝国の基礎がここに築かれたわけであり、二人の時代を東ロシアの「近代の黎明期」と位置づけうる。一方、西ロシアについては、国家や君主ではなく、「リトアニアの政策にロシア人が与えた影響や、リトアニアの行政やポーランドの制度が西ロシアのロシア人に与えた影響」が軸となる。西ロシアに対するこのような視点はロシアの歴史を描こうとする以上やはり当然であろう。その際、一五六九年のルブリン合同や一五九六年の合同派教会の成立を西ロシアにおける「近代の黎明期」の到達点とみなすことも首肯できる。前者はリトアニアとポーランドとの一三八五年以来の国家関係の帰結、一方、後者は東西両教会の再統一を目指した一四三九年のフィレンツェ合同の部分的実現であり、西ロシアにこそもっとも大きな影響を与えた歴史的事件であったからである。
だが、「リトアニアの行政やポーランドの制度が西ロシアのロシア人に与えた影響」という場合、これを負の要素とみなすきらいがある。彼は、すでに一五世紀中葉に東スラヴ人の三言語が最終的に形成されていたことを認めている。しかし同時にキエフ・ロシア以来の「ロシアの一体性」の理念がなお広く存在していたことを強調する。この点に異論はないが、彼はこの「ロシアの一体性」がリトアニアとポーランドの手によって不幸にも弱められ、分断される過程、ならびにその動きに抗する新たな集団の誕生を西ロシアにおける「近代の黎明期」と捉えているように思う。ルブリン合同や合同派教会の成立はその前者の象徴でしかなく、後者の指標がザポロージエのコザークなのである。
この時代のモスクワとポーランド・リトアニアの歴史を見ていて特に感じるのは君主と国家との関係の差異である。ポーランドでは一五世紀初頭、王に近い人物が「王は、王国の財産と法の主人ではなく、管理人である。なぜなら、王に個人的に属する財産と王国に属する財産とは別物であるから」と書いている。「ポーランド王冠」に象徴される国家は独自の主体的な存在であり、王の財産ではないとするこの考え方が発達していく過程が、一五・一六世紀のポーランドの国制史であると思う。その発達過程を体現しているのが国王評議会や議会の権威の上昇であり、貴族の身分特権の拡大であった。一方の「モスクワおよび全ロシア」の大公は、ヴェルナツキーが活写しているように、国家を自らの「オッチナ(家産)」とする理念を強化し、確立することで近代ツァーリ帝国の誕生を準備した。
こうした相違点に本書はまったく目を瞑っているわけではない。リトアニアの国制と社会制度が詳述され、大公国が「立憲」的構造を持ち、大貴族の評議会が国を統治していたことが明示されている。だが、西ロシアの「ロシア人」がそのようなポーランド・リトアニア的な政治文化を主体的に吸収し、自己のものとしていたことなどが指摘されることはない。たとえば、彼によれば、モスクワとリトアニアの一五六三・六四年の交渉で、雷帝が「父祖の地(家産)」としてリトアニア内の「ロシア諸県」やリヴォニアを要求したのに対し、リトアニア側は「かつてリトアニア〔国家〕の支配下にあった」ことを理由に旧領土の返還を求めた。そしてこの時リトアニア側を代表したのは、彼が「ロシア人系統のボヤール」と誇りにするホトケヴィチとヴォロヴィチであった。この事実は西ロシアの貴族層の間にもポーランド的な国家観が無理なく育っていたことを示唆するものであるが、そうした点に目が向けられることはない。
「西ロシア」は民族的にも文化・宗教的にも非常に複雑な地域であった。そのような地域では、正とか負とかいった物差しを差し挟まずに、各集団間の相互作用を客観的に跡づけようとする姿勢が肝要であろう。要するに彼にあっては、西ロシアは「ロシア性」が不当にねじまげられた地域として理解されているように感じられるのである。この感覚はポーランド史を専攻する側のひがみであろうか。
現在ウクライナとベラルーシはロシアから分離して別個の国家を形成しているが、その歴史的な源をたどろうとすれば、おそらくこの時代に行きつくのではないだろうか。それだけに、日本語の文献の中では東西ロシアの双方の歴史に関してもっとも詳しく、かつ読ませる本書の出版は非常に喜ばしいことであるが、同時に批判的に読むという意識も少しは必要であろう。
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