国民国家の行方
  ──イグナティエフ『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』を読んで
 小野 紀明 
(おの のりあき 京都大学大学院法学研究科教授)

 国民国家の成立が画一的教育を施された等質かつ流動的な労働人口を確保した点で資本主義形成の補完物であったというのは、今日よく知られたゲルナーのテーゼである。また、国民国家の本質を資本主義的生産活動に親和的な人間を育成する規律権力、生権力に求めるフーコーの所説は、現在では常識に属する。同一性を強制したり虚構にすぎない共同体を実体化したという科をもって昨今とかく評判の悪い国民国家ではあるが、その形成期に遡って考えてみると、負の部分と並んで存外よい部分もあったことを看過すべきではない。

 中世的共同体の解体がもたらしたのは、イグナティエフの所謂霊的ニーズの衰退と文字通りの地の国の出現であった。身体を養うための基礎的ニーズに加えて、名誉や尊厳といった人間的、社会的ニーズの充足を求めるリア王の嘆きは、貨幣によって入手しうる世俗的ニーズの獲得をもって足れりと考える近代的、資本主義的人間フォルスタッフの哄笑の前にはものの数ではなかった。「名誉にお脚(あし)がつげますかってんだ。つげねえだろう。え! じゃ、お腕(て)は? こいつも駄目だ。それとも傷の痛みでもとれようってえのかい? そいつも駄目か! じゃ、名誉なんてぬかしやがって、外科医の腕さえねえんじゃねえか。」(『ヘンリー四世 第一部』第五幕第一場――中野好夫訳) こうして、世俗的ニーズを充足するために形成された、貨幣を媒介項とする即物的関係の網の目にすぎない市場に、再び市民社会という道徳共同体の性格を付与しようという思想的企てが、スミスやヒュームといったスコットランド啓蒙の思想家によってになわれることになる。今日でも資本主義の問題性を解決する手がかりをこの辺りに見出そうと多くの論者が試みていることは、周知の通りである。しかし、ルソーが既に看破したように、結局のところ市場は、「理解し理解されているというある特殊な感情」とイグナティエフが定義する帰属感を満足させることができないであろう。だからといって、伝統的共同体へと戻ることはもはやできない。近代人に新たな帰属感を提供するもの、失われた故郷に代わる第二の故郷は、基本的に権利・義務関係の下に個人的自由を保証する法的共同体でなければならない。しかし、それは、合理的な契約関係へと還元されうるものではなく、即自的な一体感を欲求の体系という煉獄をへることによって止揚した人倫の共同体でなければならない。それ故にヘーゲルの国家論やその影響下にイギリスで形成されたグリーンらの新理想主義の国家論は、個人的自由と帰属感に基づく連帯との調和をめざす、また基礎的ニーズの充足を公的に保証する福祉国家への方向も視野に収めた国民国家の理念を提示していると理解することが許されよう。

 富と徳をめぐる論争以降を展望するという目的のためにいささか教科書的な記述になってしまったが、この論争の研究者であるイグナティエフは、こうした国民国家の正の遺産をよく承知しながらも、なおそれが帰属すべき故郷として不十分であることを問題視する。なぜならば、国民(ネイション)という神話に支えられているにもかかわらず、その内部で我々は依然として相互に「見知らぬ他人たち」であり、従って国家は、冷たい権利・義務関係を越えた配慮(ケア)によって人々が結びついた道徳共同体となっていないからである。その意味で、イグナティエフが国民国家を判定する基準は、同一性の暴力の名の下にそれを告発し、その積極的解体を目論む差異の政治とは逆のベクトルをもっている。彼は、人間にとって帰属感が不可欠であることを断固承認している。しかし、他方でイグナティエフは、「われら故郷なき者」(ニーチェ)という現代人の心情の一片を共有してもいる。個人的自由の果実を十二分に味わってしまった現代人にとっては、国民国家はもとより、いかなる帰属集団といえども桎梏以外の何物でもなく感ぜられつつあるのだ。個人的自由の享受と帰属感の充足という二律背反的なニーズに応えるものとして、イグナティエフが国民国家に代わって提唱するのが、市民的(シヴィック)ナショナリズムと都会的(アーバン)帰属である。

 だがしかし、これらの選択肢は、果して現代人の矛盾するニーズによく応えられるであろうか。勿論、イグナティエフは、市民的(シヴィック)であることが本来緊密な共同体を前提にしていることを熟知している。では、敢えてこの前提を抜きにして市民を再生させることは可能であろうか。例えば、アレントの政治哲学や近年のラディカル・デモクラシーの議論は、この可能性への挑戦であろうが、私には疑問である。市民権(シチズンシップ)は法によって保証された権利であり、それ故にそれは、法の実効性を担保する暴力と暴力行使の正当性を付与する神話からなる政治的共同体──道徳共同体ではない──の存在を不可欠のものとしているのではないか。可能なことは、せいぜいのところその神話の凝集力を緩和させること程度であろう。では、この凝集力を極限にまで緩和した都会という帰属集団は、どうであろうか。「孤独と帰属、共同性と疎外が背中合わせに住んでいる」都会は、そこに住む者の帰属感を満足しうる程度には充足し、最小限の道徳共同体という性格を獲得しうるであろうか。「都市に住む見知らぬ他人たち同士の無言の近さ」は、道徳的な配慮(ケア)の発条源となりうるであろうか。我々の想像力は、誰とも知らぬアパートの隣人に親身になって世話をやくほど広大なものであろうか。私にはそう思われない。都会の隣人相互のニーズを実現するためには、ここでも国家が強制する法的当為に訴えるしかないのである。

 自身、亡命ロシア人の系譜をひくイグナティエフは、国籍をもたない者が基本的ニーズすら保証されない境遇に置かれることを承知している。それ故に彼は、国民国家そのものの解体という過激な主張に与することはけっしてない。同時に彼は、法的な権利・義務関係に基づく国家の本質的な冷たさには我慢がならないし、それを隠蔽もしくは道徳的に補完するための国民(ネイション)という神話のほころびにも気がついている。また、だからといって宗教的、文化的な根源的故郷への回帰の危険性と愚かさも理解している。とどのつまり我々は袋小路へと迷いこんでしまったのだ。本書において鋭い問題提起とその背景を探る思想史的分析の鮮やかさとは対照的に、著者自身の展望がいまひとつ明確な像を結ばないのは、むしろ著者の誠実さを示すものである。イグナティエフは、出口なしの状況下で乾坤一擲の賭けを冒す愚を避け、一筋の脱出路を求めて暗中模索している。その慎重で堅実な姿勢にこそ我々は学ぶべきであろう。



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