「シュミットとナチズム」雑感
  ──訳書B・リュータース『カール・シュミットとナチズム』の刊行に寄せて
 中道 寿一 
(なかみちひさかず 北九州大学法学部教授)

『風のたより』(第6号 一九九六年一一月一五日)に山下威士氏の「カール・シュミットの『遺産』──書簡目録について」という文章が掲載されている。この「遺産」とは、ノルトライン・ヴェストファーレン・ラント国立中央公文書館に「RW二六五」としてK一からK五〇〇という番号のついた五〇〇個のカートンに収蔵されているシュミットの残した膨大な資料のことであるが、山下氏の文章は、その中の書簡に関する資料が『カール・シュミットの遺産 ノルトライン・ヴェストファーレン・ラント国立中央公文書館収蔵目録』として公刊されたことについて紹介したものである。

 私がこの「道産」の存在を初めて知ったのは、一九八八年一〇月中旬、プレッテンベルクのシュミットの家と墓を訪ねたときのことである。しかし、その後、アウシュヴィッツなど「ナチズムへの旅」に出かけたため、この「遺産」に対する具体的な行動は、年明けにずれこんでしまった。一九八九年一月末、私は、デュッセルドルフにあるこの公文書館を訪ね、あらかじめ手紙でお願いしていたこの「遺産」の閲覧を求めたのであるが、そこで得たものは、この「遺産」の閲覧にはシュミットの死後三〇年間遺産管理人の許可が必要であり、フライブルク大学へ行って許可を得てくれば、その可能性があるという示唆であった。その時は、出来たばかりという『遺産』の目録を一日がかりでメモして(コピーは許可されなかった)辞去した。二月末、フライブルク大学へ赴き、遺産管理人のカイザー教授に許可を求めたのであるが、結局、一九三三年以降のナチズムとかかわりのあるとおもわれるものは許可されず、ワイマル末期の「ラント対ライヒ」に関する一カートンの閲覧を許可されただけである。それでも、その足で、デュッセルドルフヘ向かい、『遺産』の閲覧を求めると、教授から連絡を受けたメーデン氏の好意で、五つのカートンとそれに関連する八つの資料袋を閲覧することができた。もちろん、これらはすべて、ナチズムとかかわりのないものであったが、それでも、二日がかりで興奮しながら資料を手にしメモをとったことを覚えている。しかし、その時、これまでシュミットに関する資料を求めて訪ね歩いたミュンヘンの現代史研究所、コブレンツの連邦公文書館、フライブルクの軍事公文書館、西ドイツ(当時)国家秘密公文書館、アメリカ・ドキュメント・センターなどで薄々感じていたシュミットへの「友敵開係」を、この公文書館においてほど強く意識したことはなかったので、当分の間、私の「シュミットとナチズム」研究は、「不十分ながら」他で入手した資料で行わざるを得ないという無念な気持ちを抱いたこともまた確かである。

 こうした私の甘えた気持ちを打ち砕いたのは、B・リュータース『カール・シュミットとナチズム』(原題は『第三帝国におけるカール・シュミット』)(一九八九年)である。一九八七年にV・ファリアスが『ハイデガーとナチズム』を発表し、ハイデガーのナチズムヘの積極的参加を論証してセンセーションを巻き起こしたことから考えれば、「国法と政治理論の領域において哲学のハイデガーに相当する」(C・G・クロコフ)シュミットについても、いずれ、新たな資料と視点に基づいた彼の「ナチズムへの参加」問題に関する研究書が公刊されるであろうことは予想されたことである。しかし、新たな資料を求めて彼の地を右往左往していたその年に、必ずしも「新たな資料」の掘り起こしに頼らずとも十分この問題の解明に寄与し得ることを示したリュータースのシュミット論が公刊されたことは、私にとって一つの衝撃であった。そして、この衝撃を具体的な形にした訳書が間もなく出版された時、更なる衝撃を受けた。H・クヴァーリチュ『カール・シュミットの立場と概念――史料と証言』(宮本盛太郎/初宿正典/古賀敬太訳、風行社、一九九二年)は、「新たな資料」に基づいたシュミット像の再構成(被害者としてのシュミット像)をおこなっているのであるが、付録として収録された古賀敬太「ナチズムにおけるカール・シュミット」は、「新たな資料」を駆使するクヴァーリチュの視点の偏りを示すと同時に、リュータースの『カール・シュミットとナチズム』を取り上げ、訳書全体に対してバランスを与えていた。今回、その『カール・シュミットとナチズム』(第二版、一九九〇年)が古賀敬太氏の訳で風行社より出版されることになったことは、わが国のシュミット研究の発展にとって、喜ばしいことである。

 『カール・シュミットとナチズム』において、リュータースは、第三帝国期にシュミットの失脚を画策した0・ケルロイター、K・A・エックハルト、R・ヘーンというナチスの法学者を取り上げ、彼らもついには失脚させられたことを明示しながら、また、レーム事件におけるヒトラーの殺人行為の正当化論、シュミットの一貫した反ユダヤ主義やラウム理論を取り上げながら、一九三六年の『黒色軍団』によるシュミットへの攻撃と彼の失脚は彼のナチスに対する抵抗の結果ではなく、むしろナチスヘの積極的参加を前提にした上での権力闘争の結果であること、したがって、その後の「国内亡命」は戦後のシュミットによる自己弁明でしかなく、事実に反するものであることを指摘している。こうしたリュータースによる「加害者としてのシュミット」解釈の評価に関しては、先述の訳者の論稿においても触れられているので、参照されたい。ここでは、それ以外の特徴について触れておきたい。今回訳出された『カール・シュミットとナチズム』は、「数カ月しないうちに品切れになった」第一版の「個々の章を補充し、掘り下げ」た第二版に基づくものである。「補充」の顕著なものとしては、第二版の第三章?、第四章?2が挙げられるが、第五章「カール・シュミットと『ラウム革命一九八九/九〇年』――あるいは法学者の適応問題としての『法更新』の持続性」は、一九八九年から一九九〇年の中東欧の変革過程を受けて、新たに付加されたものである。ここでは、「シュミット問題」は、「体制転換後、特に全体主義的支配形態の安定化における知的な官僚エリートや権力エリートが置かれていた危険と誘惑を代表している。シュミットという人物は、その際本質的なものではない」として、体制転換後のエリートの直面する「体制順応」という問題へ一般化され、「今日最もアクチェアルな」問題と指摘されている。


 ところで、私の「シュミットとナチズム」研究は、こうした研究成果から大いなる刺激を受けながらも、まだ薄明の中に、否、暗闇の中にある。ただ、導きの灯りの一つとして、「存在の『現在』への深い洞察をもたらしたこの[ハイデガーの]思考がナチズムにつながるという『近代』の隘路、……この隘路から抜け出るためにも、ハイデガーがナチだったから読むのを止めるのではなく、ナチだったからこそハイデガーは読まれなければならない」(西谷修「ハイデガーの褐色のシャツ」『現代思想』一九八八年三月)という視点をシュミットに当てはめてみるのも面白いではないかと考えているところである。



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