国民と代表者の関係
──Ch・ミュラー著『国民代表と議会制──命令委任と自由委任』の邦訳に寄せて |
- 山口 利男
(名古屋大学名誉教授)
- 〔問題の所在〕 国民が選んだ代表者を法的、政治的にどのように位置づけるかは民主的政治システムの根幹だけに、歴史的にも理論的にも未解決の部分を残しており、依然として今日的で実践的なテーマといってよい。
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このたび邦訳されたCh・ミュラー著は、「命令委任と自由委任」という顕微鏡的に狭く限られた視角から、この大きなテーマに迫っている。原著は難解な専門書であるが、著者の意図は「日本語版への序」に明らかである。
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本書は異なるテーマを扱う五章から成るが、従来の通説に対して論争的な内容で、その研ぎ澄まされた議論は、三〇年前の学位論文とも思えないほど新鮮な問題提起に満ち、その帰結は著者の秘めた中心テーマともいうべき近代化への道を展望している。このような著者独自の主張を当時の書評二篇(F・コーヤ、M・ストック)を手がかりに、誤解を恐れず要約して紹介を試みたい。
- 〔自由委任の社会的機能〕 書者は最初の二章で、国民代表における命令委任と自由委任という法概念の吟味とその歴史的位置付けについて、従来の支配理論(M・ウェーバー、C・シュミット、G・ライプホルツら)を吟味し、いずれも混乱ないし矛盾し、支持されないことを明らかにする。
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ついで著者は、豊富な歴史資料と法社会学的方法を用いて、命令委任と自由委任という法概念の背後にある組織論的実相に迫る。すなわちA・ヌスバウムの意味における「法的事実」の確認を進め、さらに比較法的スケッチによって、自由委任の社会的機能を「社会的代表過程内部の法的調整器」の中に求める。これによって従来の支配理論は、不正確な事実に基づく、いわば見せかけの対立を巡って争っていたことになる。このように著者は、議会制における自由委任について法社会学的解釈を首尾一貫して展開し、その社会的機能を積極的に評価するのである。
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このような代表問題への独自の接近に当たり、H・ヘラー研究の第一人者である著者が彼の主権論に学び、また本書が捧げられたM・ドラートによる初期立憲主義における自由委任の研究に依拠していることが注目される。国法学上これまで正当に継承されなかったこれらの成果に立って、「伝統的システムと動態的システムに関する法社会学的問題枠組み」が提起され、これによって自由委任の最初の到来が中世イギリスの初期絶対主義にまで遡ることが可能になったのである。
- 〔自由委任成立の意義〕 著者はこの問題を、本書の主要部分(三、四章)で、イギリスとフランスとの対比の中で明らかにしていく。
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一三世紀末、イングランド王は国内の有力者との骨の折れる個々の処理に代わって(命令委任の制限)、最大限の権限を持つ等族代表を集め、彼らと協同して真の決定に至るように配慮した(自由委任)。つまり王は、新たな代表議会(「政治的統一の調整中心機関」)の形成によって、社会的分断と諸特権の形成という危機を乗り越えることに成功した。この時、自由委任は農業中心の社会から複雑化した経済条件への社会的構造転換(市民社会)に役立つ道具として機能することになったのである。
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これに反してフランス絶対主義は、地方の分権主義と三部会の抵抗を克服することに成功しなかった。この社会的閉塞を打破するため、フランスでは「巨大な爆発」を伴う社会変革が必要となった。一七九一年憲法が世界で初めて「国民代表」と「自由委任」を規範化したのは、反動派の妨害を排除し、議会の決議能力を高めることにあった。
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ところで、「カウンシルの王」から「パーラメントの王」への発展というイギリス型モデル(下からの)がフランス絶対主義モデル(上からの)に較べ、より近代的であり、しかもそのフランスが第三の国、例えば議会民主制の成立に遅れをとったドイツに較べ、よりましだと主張する著者は、実は近代国家のモデルが絶対主義の中に存するという、C・シュミット流の見解と闘っているからに他ならない。
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- 〔帰結と展望〕 著者は、上述の見解から導かれる帰結について慎重に留保しているが、その「結論」(五章)で自由主義的代表制以後の現代大衆政党国家における社会過程としての政治代表に触れている。
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全ての決議体が有効に機能するには、自由委任つまり議員の全権と法的に自由な地位が前提であると解する著者は、当然これに反する命令委任には厳しい評価を示す。命令委任を「消極政治」(拒否集団が存在し、その力はその時々の紛争を解決する程に強くないが、決定を妨害するには十分)の印とみるからである。その例証として、著者は「緑の運動」における議員(委任)のローテーションをあげる。それは当初の政治的弱さによって阻止的戦略に限られた時の方式で、初期的欠陥を克服して成長した現在、ローテーションの制限ないし廃止がなされていくという。
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また命令委任を直接民主制の組織手段(国民投票)に仕立て上げ、代表民主制を克服しうるとの考えに対しては、「人気取り民主制」に堕するドグマとして斥ける。
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これに反し、自由委任は単に立憲主義の現象に止まらず、特に現代政党国家の下では、決定を可能にするための妥協を引き出し、政治的意思形成のチャンスを作る必然的手段として高く評価する。
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したがって、このような自由委任の下では、国民と代表者は、原理的には「一致の状態」ではなく、両者の「調整過程」したがって継続的に対峙しながら「相互の歩み寄り、影響、浸透」の関係に立つ。なぜなら代表者は国民であることはないが、代表は「自己の権利」である反面、会議の決定能力を高める責任を合わせ持つからである。
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この見解はもともとヘラーのものである。彼によれば、代表者の地位は「主権的」でなく「官職的」(magistratisch)なものだから、それは?「独立性」をもつが、「合理的に制定された法秩序」を通じて「人民の意思に拘束される」。したがって?政治のダイナミックスの中で「代表の選任」が最も重要となる。したがって代表者が自由委任の背後に身を隠し、正当な民主的統制を免れるような事態は、著者の決して認める所ではない。
- 〔日本への影響〕 もとより本書は、刊行された六〇年代の時代的制約を免れてはいないし、ここから直ちに今日的解答を求めることも出来ない。しかし代表理論への問題提起ないし再評価につながることは確かと思われる。
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戦前のわが国では、イェリネック流に国民代表を法概念として維持しようとする学者(美濃部達吉、佐々木惣一)もみられたが、むしろこれをイデオロギーとして否定する学説が多数であった(とりわけ宮沢俊義『国民代表の概念』一九三四年)。
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戦後、国民代表制について多くの業績をもつ杉原泰雄の場合、そのモデルをフランスに求め、国民代表を君主主権と人民主権という二つの法イデオロギーを巡る階級闘争の所産と捉えており、本書のような組織論的視点を欠いている。したがって著者の次のような発言「憲法学は〈事実に関する適切な判断なしに形成されてはならない〉が、政治学も〈憲法規範を正しく解釈することなしに憲法の現実を持ち出すことは許されない〉」は傾聴に値いしよう。
- 〔著者との交流〕 たまたま著者は、ヘラー研究を通して私の二〇年来の友人である。ベルリンで初めて会った時(一九七五年)、本書を頂いた。今回の紹介に当たり、三〇年前の書評を探し当て、しかもコメント(「反批判」)を付して送ってくれた友情に感謝したい。本書は、その後の著者の学問的、政治的「基礎」を築くことになったものとして一段と貫重である。
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今回の邦訳は、私にとって二重に嬉しい。一つは友人クリストフの為に。ミュラー教授はヘラーに関する二つの国際会議(一九八三、一九九一年)を通してばかりでなく、八七年の来日を機にわが国に多くの知己を得ている。二回目の来日を前に本書が公刊されることは、最大のプレゼントとなろう。二つは日本の読書の為に。本書の訳者は、既にヘラーやミュラーの著作の翻訳を通じて実績をあげている。その見事な日本語――部分的に硬さも残るが――を通して、本書が広くわが国の読者に読まれ、著者の念願である日独両国の相互理解に資することを心から期待したい。
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